震災を語る

震災を語る 第3回

第3回「震災は私たちから田尾刹那ものを奪い また、たくさんのことを教えてくれました」 秦 詩子さん(女性/人と未来防災センター・語り部)

私の体験

地震なんて他人事、あの日まではそう思っていました

震災当時、私たち家族が暮らしていたマンションは高速道路がつぶれた場所のすぐそばにありました。1階がつぶれてしまって自宅への立ち入りが禁止になるなど、このあたりはもっとも被害が大きかった地区です。

「地震なんて人ごと」ずっとそう思っていたから、何ひとつ防災の用意はなく、意識もゼロに近い状態でした。突然襲ってきた大地震によって、家の中はミキサーにかかったようにもうめちゃくちゃ…しばらくは何が起こったのか全くわかりませんでした。

しばらくして主人や息子の無事を確認し、危険迫るマンションを出てみると、そこは一面がれきの山。空が明るみはじめ、少しずつ状況が見えてきたのですが、変わり果てた街は驚くほどしんと静まり返っていました。

「ありがたい」と感じたのは、水・知恵・人のこころ

【写真】崩壊したマンション

自宅に戻れなかったため、住むところが見つかるまでのあいだ車の中で1週間、その後公園にみんなでテントを張って4カ月間生活していました。ライフラインが寸断され、不自由な毎日を送る中で「水」のありがたみをひしひしと感じました。電気やガスがなくても火を起こすなどして代用できるのですが、水だけは生きていくためにどうしても必要。トイレなどの衛生面を考えても「水がある」ということが本当にありがたく感じられましたね。

それから、生きる知恵としてものすごく強かったのがキャンプなどの野外活動体験です。火を起こしたり、テントを張ったりという何気ないことがすごく活きました。日頃から、見ているだけでなく実際にやってみて身体に覚えこませておくことが大切だと思います。

避難生活をしているあいだ、私は炊き出しのリーダー格として火の番をしていました。はじめは自分と家族のために夢中でとった行動が、自然と人のためにもなっていたんです。被災した人々はみな疲れ果てていて、なかなか自分で何かをしようとしなかったんですね。ただ途方に暮れ、誰かが何かをしてくれるのを待っていました。でも、人に助けていただくことと甘えることは違うんですよね。自分にできることは、自分でやっていかなければダメ。そのことに気づいてからは、ひたすら貫き通してきました。

震災を体験してから10年になろうとしていますが、やはり人生観が大きく変わりました。一人きりになるとものすごい不安に襲われて呆然としてしまう。それが怖いから人の支えあいが自然と生まれ、また人のこころに本当の意味で感謝できるようになっていったんだと思います。人のぬくもりって本当に心強かったですよ。気持ちがつぶれてしまった時、友だちをはじめボランティアの方々などからも声をかけていただき、自分を取り戻せたということが何度もありました。

大切なものを次々に奪った震災が、私たちに残した見えないもの

【写真】泰 詩子さん

震災から8年が経った頃、学生の時分に被災した息子と今まで一度も触れたことのなかった当時の話をする機会がありました。彼はこれまでずっと、震災の話をすることを嫌がっていたようです。

震災の後、がれきの山を掘り起こす作業に参加していたことを知った私は、労うように「たくさんの人の命を助けたんだね」と言ってしまいました。

私たちが暮らしていたのは一番被害の多かった地域、掘り出したのは大半が亡くなっている人だったそうです。そして、その中には彼の幼稚園時代からの親友も…。震災の話をすると、あの時のことを思い出してしまうから話したくないというのです。

たくさんの人の力を借りて復興が進められ、今では、ここであんな大きな震災が本当にあったのかと思うほど、きれいに街並みがよみがえりました。でも、被災した私たちのこころの傷は、10年経ったからといって元の状態に戻るわけではありません。震災孤児の中にも、心身のケアをまだ必要とする人が多いといいます。

人の命というものは、なくなったら終わりじゃないんですね。亡くなった人の命が、生き残った人たちにどれほど大きな意味を残していくか…。消えていったたくさんの命を目の当たりにした息子たちをはじめ、私たちは命の重みをずっしりと受けとめて、今も苦しみながら生きているのです。

(インタビュー 2004年11月11日)