震災を語る

震災を語る 第9回

第9回「失ったものの大きさに匹敵するほど、学んだことや気づかされたこともたくさんありました。」 水口 福弘氏(男性/人と防災未来センター・語り部)

私の体験

事態の重大性に気づいた時には、全壊した家屋の下敷きでした

神戸に生まれ育った私は、震災のその時も、JR住吉駅の南に広がる住宅街にある自宅におりました。1階の6畳間でひとり寝ていると、突然、車がデコボコ道を走るような激しい縦揺れに見舞われて目が覚めました。「神戸に長年住んでいて大きな地震なんてない、すぐおさまるだろう」と思っていたところ、タンスらしきものが下半身に倒れてきて、身動きが取れなくなってはじめて事態の重大性に気づきました。全壊した家屋の下敷きになってしまったんです。

「お母さん!」慌てて隣室に寝ているはずの家内を呼びましたが、やっぱり返事はありません。もうダメか、と不吉な思いが頭をよぎりました。しばらくすると、上の方から「お父さん、消防署に頼んできたから大丈夫よ」という家内の声。これは嬉しかったですね。続いて「お父さん、頑張って!」という娘の声が聞こえ、2人が無事だとわかりホッとしました。

奇跡が奇跡を呼んだ、あの日のこと

震災直後の水口さんのご自宅
震災直後の水口さんのご自宅

しかし、安心ばかりもしていられません。下半身が強く圧迫されていたせいか、足腰がしびれて神経がだんだん麻痺してくるんですね。身体が熱くなり、意識がもうろうとして…あのまま気力を失っていたら、死んでしまっていたかもしれません。でも、家族や離れて暮らしている年老いた両親のこと、職場のことなどを考えはじめたら、「いや、まだ死ぬわけにはいかない!」と強く思ったんです。そこからは、執念。ダメ元で、最後にもう1回だけ挑戦してみようと、手を思いっきり上にのばしてみました。

すると偶然誰かの手が私の手に引っかかり、そのままグッと引っ張られたんですね。自分ではどうにも動かなかったはずの身体が、不思議なことにスルスルと引き上げられ、奇跡的に救出されました。重ねて被っていた布団が身体とタンスの間にあったことが功を奏したように思います。圧死寸前の状態で、とても長く感じましたが、たぶん1~1.5時間ほどの出来事だったのではないでしょうか。助けてくださったのは近隣の方。救出された時、パチパチと拍手が起こったことを記憶しています。

我が家は4人家族。大阪市内に勤めていた息子はその日が夜勤であったため、惨禍を逃れたんですね。そして週末を利用して帰省していた娘は、我が家から出勤するため朝一番で帰ろうと駅に向かう途中で無事。そして家内は娘を見送った後、ゴミを捨て、家へ戻ろうとドアに手をかけたところで難を逃れました。また、自宅は2階が滑り落ちるような形で倒壊したため、私が埋まっていた位置が浅かったことも、不幸中の幸い。家屋と家財のほとんどを失い、震災前年に自宅を改修した時の住宅ローンのみが残るという厳しい現実が待っていましたが、奇跡が奇跡を呼んで家族全員の命があったというだけでも、幸運だったなと改めて感じています。

譲り合い、助け合い…他人が身内のように感じられました

倒壊を免れた近所の方の家で休ませていただいた後、近くの小学校の体育館で避難所生活をはじめました。外に出て最初の驚きは、見慣れた街並みが一変していたこと。近所の古い木造住宅は全滅、塀は道路に崩れ落ちてはるか向こうまで街が見渡せ、被害のひどさを物語っていました。

避難所での生活は辛いこともたくさんありましたが、それ以上に感動させられることもたくさんありました。狭いスペースの中で見知らぬ者同士が場所を譲り合っていたこと、自分の家が潰れてしまって大変だというのに炊き出しに参加する人がいたこと、次にトイレを使う人のためにバケツリレーで水を運ぶという思いやり溢れる行動…どれもが印象的でした。そして電気が復旧してTVがついた時、ほんの少し日常が戻った気がして何とも言えない安心感を覚えたことを思い出します。

決して忘れることのできない、幼い姉弟の感動と涙

【写真】水口 福弘氏

もうひとつ、肩を寄せ合う避難所生活の中でどうしても皆さんにお話ししておきたいエピソードがあります。まだ全身打撲やショックが残っており、私が体育館で横になっていた時のことです。隣には視覚障害のご夫婦と小学生の姉弟が身を寄せていました。ある日、姉弟の目の前で父親がバッタリと倒れ、そのまま運ばれて行ってしまいました。まだ幼い子どもたちの姿と父親の容態を慮っていた翌日、父親の兄弟だという男性と子どもたちが戻ってきました。父親は亡くなられたとのことでした。荷物をまとめて避難所を立ち去ろうとしたその時、姉弟は手にしていた牛乳パックを「残っている人に置いていってあげよう」「早く飲むようにと書いておこう」などと相談をはじめたのです。大震災に見舞われ、衝撃的に父親を亡くし、悲しみがはち切れんばかりであるはずなのに、なんて思いやりのある姉弟だろうかと私はいたく感動していました。

しばらくして、学校の先生らしき女性が姿をあらわすと、これまで気丈に振る舞っていた子どもたちがその女性の胸に顔を埋めてワーッと泣き出したのです。私はさっきまでの感動に大きな悲しみが重なって、言葉にはできない思いにかられました。この光景は、決して忘れることができず、いまでもこの姉弟の将来に幸あれと祈り続けています。

犠牲になった方々のためにも、私なりに使命を果たしたい

震災を体験し、正直いまでも喪失感は残っています。でも、それに匹敵するほど学んだこともたくさんありました。まずは、人生観。これまで「他人は疑ってかかれ」といった考えがどこかにありましたが、その意識は180度転換。人間は優しいなぁ、思いやりがあるなぁと実感する場面にいくつも出会いました。そして、物への執着心も消えたように思います。それだけではありません。命・家族・助け合い・思いやり・体力・精神力…言葉では言い表せないほどたくさんの大切なものがあったことにも改めて気づかされました。

6,400人以上の方が犠牲となった阪神・淡路大震災。奇跡的に生き残った私に与えられた使命は、「経験と教訓」そして「愛と感動」を全国の皆さんに生の声で発信し、こうして次代に語り継いでいくことだと確信しております。

(インタビュー 2005年4月23日)