震災を語る

震災を語る 第12回

第11回「私は、何かをするために生きることを許されたひとり…かもしれません」荒井 勣氏(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

生き残ったのは、何かをするために生きることを許されたから?

阪神・淡路大震災は、神戸の街とそこに暮らす人々に大きな傷跡を残しました。私の場合は、自宅も会社も「一部損壊」。家中のものがひっくり返り、ライフラインも停止しましたが、なんとか生活はできる状態でした。

その昔にPTAの役員を経験したことから、様々な活動に積極的に参加するようになりました。まだ「ボランティア」という言葉になじみの薄かった頃から、青少年健全育成のための「ひまわりネットワーク運動」を推進するなど、お節介な性格が私をボランティアに向かわせていきました。震災で生き残ったのは「何かをするために生きることを許されたひとり」だからでは? と思ったとき、駆り立てられるがまま、家も仕事もほったらかして被災現場に飛び込んでいきました。

思いたったら即行動。先手・先手の活動を心がけています

【写真】荒井 勣氏

知恵を出して、常に一歩先を読みながら活動を展開するとたいへん喜ばれますし、喜ばれることをしていくうちにその魅力にハマっていくのがボランティア。震災直後、まず避難所になっている近所の小学校に向かいました。飲み水がなく困っているとわかると、さっそく「水をくむ」ことからはじめました。トラックの修理・販売の仕事をしていたので、トラック+タンクで給水車がわりになると考えたのです。

給水活動をはじめて6日目、役所の給水車も増えてきたところで、さらに先手を打たなければよいボランティアはできないと思うようになりました。そんなとき、ふと周りに目をやるとみな頭をかいているんですね。私もかいていました。そこで思いついたのが、お風呂でした。

100万円で売るはずのトラックを改造し、車用のスチーム洗車機を荷台に載せて温水シャワーが浴びられるような知恵を出したのです。青少年の健全育成を目的に組み立て式迷路の出前をやっていたときの、創作迷路用のひまわりの絵が描かれた板を囲いに使ったため「ひまわり温泉」と名付けました。学校の校庭で提供を開始すると、そこには長蛇の列。すまんな兄ちゃん、ありがとう…そういって泣いて喜ばれたのは初めてのこと。「神戸が私を必要としている」と思うと私も涙が止まりませんでした。これが震災ボランティアを続けていこうと強く思った瞬間でもありました。

その後8月までの半年以上にわたって、ひまわり温泉は場所を移しながら提供を続け、1万人くらいの方にご利用いただきました。自衛隊よりも早くお風呂を提供できたことを、ささやかな誇りに思っています。

ただのお節介が、「ボランティア」になるとき

ボランティアというのは、所詮お節介。私は、それが喜ばれたときにはじめてボランティアになると考えています。ひまわり温泉の提供にあたって、たくさんの学生たちが協力してくれていたのですが、彼らもまた日々の活動のなかでそれを感じはじめていました。避難所で心の通う活動をしたいと考えていると、お湯+救援物資のタオルでおしぼりを用意してひとつひとつ配って回ろうと思いつきました。

ボランティアの学生たちが熱々のおしぼりを手渡していると、おばあちゃんがおしぼりではなく学生のその手を握り「あんたら、偉いなー」と言って、その手を離しませんでした。これには当事者をはじめ、私までがもらい泣き。喜んでくれる人と直接ふれあえたこの避難所での支援活動は意味が大きく、その後の私たちにも大きく影響したと思っています。

アイディアで心の交流。貴重な体験は次に活かしています<

おしぼりだけでなく、お酒を配ったこともありました。紙パックのお酒を用意してひまわり温泉のお湯で温め、わかる人にだけわかる告知放送を流すと、寒い校庭に30人くらいの酒好きが集合しました。ちょっと飲んで身体が温まってくると、心も少しずつ解きほぐされていき、あの瞬間の話を誰からともなくポツリポツリと話しはじめました。ときに涙を流しながら。それでも、心のたがが外れたといいますか、被災者とボランティアの心の交流を持つよいきっかけになったと思っています。これは新潟の地震の後、山古志村での支援活動にも活かしています。

お酒のほかにも、配布される冷たいお弁当だけでは淋しいだろうと、温かいおかずを1品考え、自慢のお湯を使って用意できる湯豆腐や温泉たまごを配ったり、後には茶碗を集めて配布したりしていました。どれも避難している方々の顔が見え、少しずつ気持ちが見えてくる貴重な機会でしたね。

瓦礫のまちにひまわりを

【写真】荒井 勣氏

震災前から、青少年の健全育成のために明るい街づくりからはじめていこうと、太陽の花・ひまわりの持つ明るさを味方に付け、ひまわりで地域を耕そうという活動をしていました。希望者に種を配り、大きな黄色い花があちこちで咲き誇れば、まず街から元気になっていけばと。そして震災後、瓦礫の街にこそひまわりは必要だと考え、マスコミを応援団に付けてあちこちで紹介していただき、種を大勢の方にお配りしました。

自ら仮設住宅を訪問しては種をまき、成長を楽しみにしつつまた仮設を訪れる。こうして、また新しいコミュニケーションも生まれました。「瓦礫のまちにひまわりを」という運動はどんどん広がり、今では「ジャンボひまわりコンテスト」まで行われるようになりました。これは毎年ずっと続けていきたいですね。


「日常」の活動が「非常」を支えています

私は今こうして、人と防災未来センターで語り部をやらせていただいています。

被災者でありながら、地元ボランティアとしての活動をしている「ひまわりオジサン」は、ちょっと変わった立場かもしれません。しかし、こうした活動についても誰かが話をしなければ伝えていくことはできませんし、みなさんのなかに被災地でのボランティアなどを考えている方がいるかもしれません。

ボランティアというのは、普段やったことがないことをするのではなく、日常的にやっていることの延長にあります。ですから、日頃の活動を大切にしてください。日常の活動こそが、非常を支えます。私は、現在も兵庫での経験をもとに新潟へ行って、その経験を活かした活動を続けています。もちろん一人の力ではできません。多くの仲間や、協力者に感謝しています。

【参考資料】友月書房「瓦礫のまちにひまわりを」
NPO法人ひまわりの夢企画代表 ひまわりオジサン 荒井 勣
(インタビュー 2005年6月1日)