震災を語る

震災を語る 第13回

第13回「命さえあれば何もいらない…耐えた、叫んだ、極限状態の7時間」荻野 君子さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

わずかな隙間に助けられたものの、死を感じた生き埋め体験

震災の時、私たち家族4人は神戸市東灘区に住んでおりました。長女は長野県へスキーに出かけていて、難を逃れることができました。1995年1月17日・午前5時46分、成人の日からの連休明けの朝でした。1階の部屋で前夜の団らんで使用した格調コタツを片付けることなく、いつもと違う方向で主人と布団を2組敷いて休んでいました。

何の前ぶれもなく「ドドン」と、いきなり何が何だかわからなくなり、一瞬のうちに築20年の我が家は2階が1階を押しつぶす形で全壊。2階がコタツの高さまで落ちてきて、私たち夫婦は1階で生き埋めになってしまったのです。幸いにもコタツと畳の間にわずかな空洞ができて圧死を免れましたが、身体は石膏で固められたように仰向けの状態で動けません。顔の上には押入れのふすまが覆い被さったおかげで、何とか窒息せずに済みました。それでも「ここで人生終わりかな…」と、死を感じずにはいられない恐怖を味わいました。

命さえあれば…どんなに叫んでも届かない倒壊家屋下からの声

【写真】危機一髪

さて、命はあるものの、まったく身動きが取れません。あたりは真っ暗、壁土のニオイに加えて、ガス管が外れたのか鼻をつくガス臭が漂い、ガス爆発で吹っ飛んでしまうのではないかと怖くて震えが止まりませんでした。私が声をあげると、主人が「声を出すな」と言います。声を出すと、体力を消耗してしまうんですね。落ち着こうとするのですが、それでもやっぱり声が出てしまって。外の音は、パトカーや救急車、消防車にヘリコプター、そして人の声まで、何でもよく聞こえてくるんです。でも、何故だかわかりませんが、こちらの声はまったく外へは届きません。私はそろばん教室を40年ほどしておりまして、仕事柄声には自信がありましたので、「生きているのに死んでいると思われて、取り残されたくない」「とにかく生き延びたい」という一心で、主人の制止を振りきって一生懸命叫びましたが、まったく手応えがなくダメでした。それからは、「命さえあれば、何もいらない」そう思いながら、ただじっと助けを待っていました。

苦しい、辛い。子どもたちだけは助かって!

私の埋まっていたところは音や声がよく聞こえましたが、すぐ側の主人はまったく聞こえない場所で、私が声を出しただけでも耳に土や埃が入ってくるといった状況でした。極限状態ながらも、夫婦で話をしたのは子どもたちのこと。「子どもだけは助かってほしい、助けてやりたい」と思いつつ、県外にいる娘はきっと生き延びてくれるよね…2階にいる息子は大丈夫だろうか…と子どもたちのことばかりを考えていました。

そんな時、外から息子の声が聞こえました。「父さん、生きている!」私はそう叫ぶとともに、神様の声が聞こえたような気がしました。本当に嬉しかったです。あとで聞いた話ですが、息子は2階で洋服ダンスの下敷きになったものの、なんとか自力で脱出することができたそうです。私たち夫婦は、布団の中にいたおかげで大きなケガこそありませんでしたが、コタツも傷ついてきて荷物の重みが身体にどんどん加わり、そのため呼吸もゆっくりしかできなくなっていました。1月といえば真冬の寒い時、トイレに行きたくなるのも我慢しなければならず、長く苦しく辛い時間をひたすら耐えていました。

パニック状態での情報や行動は、正しく判断できるとは限りません<

息子が自力で這い出した時、「お父さんとお母さんは、向こうへ避難されましたよ」という人違いの情報があったそうです。息子は「なんという親だ…」と腹を立てながらあちこち捜しかけたものの、途中で「そんなはずがない!」と気が付いて大きな足音を立てて戻ってきてくれました。この音も、私のところにはちゃんと聞こえていました。

また、息子は助けを求めようと、近くの消防署へ素足で駆け込むという失敗をしてしまいました。こんな緊急時ですから、もちろん取り合ってはもらえません。親としてはこんな時、ご近所へ助けを求めてほしいと思いましたが、朝出勤して夜帰宅する息子にとってご近所とのコミュニケーションの機会はなく、敷居が高くて簡単には頼めなかったようです。つくづくご近所との日頃のお付き合いが大切だなぁと痛感しましたね。

幸運に幸運が重なっての救出劇。たくさんの方に守られ、助けられました

我が家は、このあたりではひどい潰れ方をした1軒でした。地震から1週間以内に撮影したこの写真を見ていただくとおわかりかと思いますが、外から見ると人間が生きているとは思えない状態でした。主人がイチかバチかでコタツを蹴ってみますと、外にいた息子にその音が伝わり、近所の方々も飛び出してきてくださいました。声を出すよりも物を叩いた方が、響いて外に伝わるんですね。

お隣は偶然にも大工さん。半壊だったため道具が取り出せたのと、専門知識をお持ちだったことが幸運でした。潰れた家の真上から少しずつ壊していき、震災から約7時間後に私たちは奇跡的に助けていただくことができました。大工さんをはじめ協力してくださったご近所の方や息子の温かさが本当に嬉しかったですし、感謝しております。

実は私、実父を1986年1月17日に亡くしており、命日と震災が同じ日だったんですね。そしてあの時、義父の形見の指輪と実母からいただいた指輪を2本はめたまま埋まっていまして、両方の先祖が守ってくれたのではと思いました。それほど、生きていたことが不思議な状況でした。

忍耐力・命の尊さ・人のありがたみ…震災が教えてくれた数々

【写真】こたつの脚を蹴る音に気付いた隣人によって助け出された

当時、住宅ローンがまだ500万円ほど残っていまして、住宅再建が最大の悩みでした。でも年を取っていつか1人になってしまった時、家賃を払って年金で暮らすのは無理かもしれない。いまやれるところまで精一杯頑張ろうと、退職金も注ぎ込んで家を建て直しました。当然、二重ローンです。それでも、あの時のことを思えば「どんなに苦しいことにも耐えられる」と思うようになりましたね。

この震災で「命さえ助かったら何もいらない」というところまで追い詰められ、命の尊さや人の心の優しさ、小さな親切、健康が財産であるということを学びました。その一方で、壊れた家からお金や貴重品を狙う泥棒が横行するなど、人間の醜さも目の当たりにしました。そして、たくさんの方が亡くなられた中で九死に一生を得て、いまを生かされていることに、また、日頃当たり前になっていることですが空気が一杯吸えることに感謝しております。

あの時、ご近所の方々や息子が命の恩人でした。もちろん、恩人たちが助かっていなければ、私たち夫婦もきっと助からなかったと思います。そのご恩返しと、亡くなられた方々の供養のために、この体験を後世に伝え、地震・防災対策に役立てていただきたく、こちらで語り部のボランティアを夫婦でやらせていただいております。最後になりましたが、全国からのご支援本当にありがとうございました。

(インタビュー 2005年6月1日)

※※荻野君子さんのご主人、荻野恵三さんの記事もあわせてご覧ください※※