震災を語る

震災を語る 第14回

第14回「昔の人たちも訴えていた「語り継ぐことの大切さ」」山田 晋さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

なぜ、地震で犠牲者が出るのか…いま、建築士の私にできること

私は74歳、戦争を体験した世代です。昭和23年から建築に携わり、昭和30年に建築士となって、それから一筋です。阪神・淡路大震災を体験し「なぜ、地震で犠牲者が出るのか」を考えた時、「建物が潰れるから」という答えがすぐに浮かびました。じゃあ、どうするか。いま私にできることで後世まで役に立つことを探していたところに「語り部」がありました。この地震で、100年に1回くらいの確率で起こりうる大地震を体験しました。被害の大きさや惨めさ…これは体験した者が伝えていく使命があると思うのです。そして、建築士としての責任感というのでしょうか、とくに建築業に携わる方々に対しては専門的な部分について伝えていきたいと考えています。

机の下に潜り込むことすら思いつかない、絶望的な揺れでした

震災の時、震源地北5キロ余りの震度6と思われる地域に住んでおりました。木造2階建ての1階、畳敷きの部屋に寝ていたところ、ゴーーッという地鳴りと同時に下から突き上げられるように南北・東西方向へなんだかクルリと回るような感じがしました。暗闇のなか、照明のコードペンダントが天井にバンバンと激しく打ち当たる音。建物はギイ、ゴーギィギイゴーと悲鳴をあげ…バシャーバンと2階からテレビや本、衣類が階段へ落ちてきた、と言うより「2階から降ってきた」という感じでした。

この絶望的な揺れに「もうこの建物は潰れる」と観念しました。ふと我に返った時、敷き布団をしっかりと握っていたのを覚えております。すぐ左横に座敷机がありましたが、潜り込むことすら思いつきません。2階にいた子どもに声をかけることさえも忘れていたようです。考える力がありませんでした。

2.8年に1度は発生している、大きな地震

日本全土を走る活断層は、実に2,000カ所を越えるとされています。過去100年間に発生したおもな地震は、1905年6月2日の(明治)芸予地震から2000年10月6日の鳥取県西部地震まで35件。平均して2.8年に1度は発生しています。その度に多くの建物が倒壊し、たくさんのかけがえのない命が失われています。100人以上の死者が出た地震は14回。1923年9月1日の関東大震災では、なんと14万2,000人もの方が亡くなっています。

では、なぜこのような被害が繰り返されるのでしょうか。大半の方は家屋の下敷きになって亡くなられており、阪神・淡路大震災でも6,434人のうち圧死者は8割以上、延焼してくる火に生きながら焼かれた方も500人以上いらしたようです。無念であったはずです。建物が完全に潰れなければ、少し上部で止まっていてくれれば、と思うのですが…その建築を生業としてきた私にとっては、慚愧に堪えない思いです。

皆さんの住宅は、大丈夫ですか?

【写真】山田 晋さん

では、皆さんがお住みになっている住宅の強度はどうでしょうか。少し専門的な話になりますが、建築基準法(建物を建築する際に守るべき法律)ではC0(標準せん断力係数)=0.3として計算します。ということは「300ガル(加速度の単位・cm/秒2)までは大丈夫」ということになるのですが、経験的には建物の余力がありますのでこの2倍くらいまでは耐えられるものと考えられます。阪神・淡路大震災では、略南北方向に818ガル、垂直方向に507ガルという想像を絶するエネルギーが発生したため、大きな被害をもたらしたのです。

それでも、この地震で倒れなかった建物もありました。それらは弱軸方向ではなく、余力のある強軸方向に主な地震の力が作用したので倒れなかったのでしょう。地震の方向と建物の大開口部の向きが、倒壊を左右したと思います。また、耐震強化工事を施していたり、少し予算をかけて耐震基準を大きく上回る強度を持っていた住宅は、倒壊を免れたケースが多かったようです。

「もし…」という言葉が許されるなら、この状況を想像してみてください

阪神・淡路大震災は早朝に発生しましたので、家族はたいてい集合していたと思います。もし発生時刻が昼間であったなら、バラバラになった家族は会うことができたでしょうか。神戸の街が活発に活動している時間帯であったなら、高速道路は、新幹線や鉄道の乗客は、どうなっていたでしょう。食事の時間帯であったなら、何倍もの火災が発生していたかもしれません。もし火事場風が強かったら、延焼が拡大したことでしょう。神戸では海水を消火用水として使用しましたが、これがもし海に面していない都市であったなら…。夏場の避難生活であったなら、伝染病も心配です。飲料水の不足が起こったかもしれません。

大きな被害をもたらした阪神・淡路大震災ですが、その時が違えば、さらに大きな被害で私たちを苦しめる結果となったかもしれないのです。「災害は忘れた頃にやってくる」といいます。いつ、誰のもとに起きるかわからない恐ろしさ…人ごとだと思っているあなたに今宵襲いかかるかもしれないということを知っておいてください。「備えあれば憂いなし」、日頃から備えるということも忘れないでください。

危険を顧みず協力くださった、全国の建築士に感謝<

震災当時、私は社団法人・兵庫県建築士事務所協会神戸支部約160社の支部長を務めており、応急危険度判定業務の責任者の1人として本部につめておりました。私の集計では、日本全国から延べ1万23人の建築士の方々が神戸・西宮・芦屋・宝塚他の各市に食なし・宿なし・水なし・危険持ちの状態で、倒れかけたり傾いたりしている建物の危険度判定業務に来ていただきました。そして、実に87,686件の判定と相談業務を行ったのです。危険度判定というのは「あなたの家は住めますから、避難所にいなくてもよろしいですよ」、また「あなたの家は余震の時危険ですから、避難所に行ってください」と被災した家々を訪ねて判定していくもの。危険を顧みず、無料ボランティアで作業をしてくださった建築士の方々に、この場をお借りして厚く御礼を申し上げます。

語り継ぐことの大切さ-明暗を分けた「大阪」と「堺」の被災状況

【写真】山田 晋さん

最後に、語り継ぐことの大切さをご紹介したいと思います。大阪市大正区の大正橋の袂と、堺市の大浜公園というところに、それぞれ1854年の安政地震に関する石碑が建っています。大正橋にある『大地震両川口津浪記』という石碑には、「1707年の南海地震時、船で避難した多くの人が津浪で亡くなった。長い年月のうちにこの言い伝えを知る者が減り、いま(1854年)また同じ理由によって死者を多く出すことになった。将来また同じような地震が起こるかもしれない。その時には津浪を想定し、船で避難してはならない」というようなことが記されています。これに現代の教訓を付け加えるとするなら、「地下街に避難しないこと」と「ビルの上階に避難すること」でしょう。

一方、大浜公園にある『擁護璽(ようごじ)』という石碑には、「堺の住民は地震や津波に壊された家もあったが、高所の神社境内に避難していてケガ人1人出さなかった。我々が助かったのは、宝永年間の同様の地震時に多くの人が船に避難して亡くなったことを知っていたため。強い地震の時には津波がくることも知っておく必要がある」といった内容が記されています。これらの内容からわかるように、災害時に過去の教訓をどれだけ活かせるかで、被害の大きさははっきり変わってくるということです。

地震を止めることはできません。でも、被害は小さく抑えることができるはずです。私の余生を、いまは亡き人々の無念な思いを語り続けることに捧げたいと思っております。センターに来館された際には、お声掛けくだされば大変幸いです。

(インタビュー 2006年4月19日)