震災を語る

震災を語る 第19回

第19回「「ありがとう」の言葉では伝えきれないほど感謝しています」津久井 幸子さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

地震の多い関東で3年間育ったせいか、意外と冷静でした

1995年1月17日、内陸直下型の阪神・淡路大震災によって、私は築50年になる日本家屋の2階で一瞬のうちに生き埋めになりました。夏だったら1階に寝ていて下敷きだったのですが、幸い冬場でしたので2階に寝ていました。和室で寝ていた夫は、マグニチュード7.3の揺れによって南側の廊下に飛ばされ、私は起き上がれないまま布団の中で家が東に倒れていくのを感じ、「倒れる、倒れる…」と言いながら気を失いました。ちょうど、私の枕元にあたる東側にはタンスが3棹並んでいましたが、家が東へ倒れたため家具の下敷きを免れました。運が良かったと思います。小学生の頃、地震の多い関東で3年間育ったせいでしょうか。大きな揺れにも意外と恐怖心はなく、冷静でいられました。

どれだけの時間が経っていたかわかりませんが、私は苦しくて目が覚めました。辺りは真っ暗で、物音ひとつしない不気味さ。そっと足を伸ばすと、足先にサラサラと土が触りました。「生き埋めになってしまった…もうダメかな?」という考えが、一瞬頭をよぎりました。でもすぐに「希望を失ってはいけない」「戦争時と違って、誰かが助けにきてくれるはず」と思い直し、どうしたら助けてもらえるかを考えました。体力を消耗しないように時々高い声で助けを呼ぼうと、苦しい中で何度も叫んでみました。しかし、反応はありません。ひたすら救出を待つものの、苦しさが増してもう我慢も限界。もう最後、と思って声を出した時「今、行ってあげる!」という外からの声がかすかに聞こえました。

昨日のことのように思い出せる、あの時のこと

頭の上の方で瓦を投げる音が聞こえる中、私は希望を持って助けを待ちました。最初に夫が助け出され、その後私のかすかな声をキャッチしてまだ中にいることがわかると、ご近所の方が周りに声をかけて救助に入ってくださったのです。人間の生と死は、時として自分では決められないということを学びました。

救出されるまでは随分長く感じましたが、約3時間後に男性が5人がかりで私を布団でくるみ、引っ張り出してくださいました。この時のことは、今でも昨日のことのように覚えております。私は自宅2階の床が抜けたために、頭を下に足を斜め上にした状態で埋まっていたそうです。苦しかったはずですね。助けてくださったうちの3人は知らない方で、未だにお礼を言えていないことが大変心残りです。

「ありがとう」という言葉では伝えきれない、感謝の気持ち

【写真】震災後の様子

震災の直後から多くの方の温かい心に触れ、また支えがあって、今日まで生きる力を与えていただきました。人と人との交わりの大切さを教えられた、貴重な体験の数々。そのうちのいくつかを、感謝の気持ちを込めてご紹介したいと思います。


  • 救助してくださった方が、病院まで車で運んでくださいました
  • 頭や体中を打って、口をきくことも立ちあがる元気もない私を見た友人が、病院に掛け合ってくださり3日間入院することができました
  • 大津(滋賀県)にいた息子が、震災の2日後に倒壊した家屋の中から私のメガネと貴重品の入ったバッグを1日がかりで探し出して、病院まで持ってきてくれました
  • 退院後、友人がご自宅においてくださり、避難所生活をしないですみました
  • 友人の娘さんが夫と私の避難先を書いた標識を被災家屋の門に張ってくださり、訪ねて来られた方に無事を知らせることができました
  • 職場の同僚に「一番必要なものは何?」と聞かれ、職場である大学に着ていくスーツをお願いしたところ縫ってくださいました
  • 1週間後に娘が千葉から迎えに来てくれ、1カ月ほど千葉で生活させてもらいました
  • 千葉で神戸から持っていった衣類を洗濯に出すと、被災者とわかったようで料金を取ってくださいませんでした
  • 被災家屋から30メートルほどのところにあるワンルームマンションを所有していた友人が、1年近く部屋を貸してくださいました
  • シドニー在住の友人は、私たちの安否を領事館に問い合わせてくださいました
  • メルボルン在住の友人は、県警を通して私たちのことを調べてくださいました
  • シカゴ在住の友人夫妻は何度も見舞いの電話をくれ、火を使わずに食べられる食材を送ってくださいました
  • 被災後1カ月余りして神戸に帰ってくると、遠いところから友人が徒歩で衣類や食料品などを届けてくださいました
  • 家屋解体の時に取り出した少々の家具を、西明石に住む友人家族が家屋再建までの間預かってくださいました
  • 被災家屋の解体によるひどい埃で洗濯物を干せない日が続いた時、友人が洗濯物を車で取りに来て、干したものを再び届けてくださいました
  • 震災の年の秋、バイオリニスト・辻久子氏のコンサートチケットをいただき、音楽によって心が癒されました
  • 震災当時、50年前の戦争体験を思い出し、「辛い体験は、形が変わっても非常時・災害時に役立つものだ」と思いました。人間の持つ力のすばらしさも実感しました

これからは「ソフト面」に目を向けていかなければなりません

震災後、もとの身体に戻るまでに約5年。私の場合、仕事などを通じて人と話すことが大きな癒しでした。もし仕事がなかったら、もっと回復が遅かったのではないかと思います。たくさんの方に助けていただいたおかげで今の私がここにおりますが、思い出の品や本類を瓦礫の中から出せなかったことは残念に思います。地震は、こうしたものまで奪ってしまうんですね。老後の計画も崩れてしまいましたが、「心と身体が健康ならこれで良かった」とようやく思えるようになりました。

阪神・淡路大震災から11年が過ぎ、神戸の街は見事に復興しました。けれども、一歩中に足を踏み入れるとまだまだ再建できない当時の面影を残すところがたくさんあります。復興住宅に暮らすお年寄りの多くは、不自由な身体で今も病院通いをされているのです。これからは、ハード面からソフト面へと目を向けていかなければならないと思います。

「私たちが語り継いでいこう」という共通の思いが、活動を支えています

【写真】津久井 幸子さん

私は、震災前から仕事やボランティア活動を通じて「命の尊さ」「助け合いの大切さ」「生きるとは何か?」を伝えてきました。今は、それに震災での貴重な体験が加わり、体験した人にしか語れないことを伝えていけたらと考えています。震災のことは、誰かが語り継いでいかなければ、忘れられていってしまいます。センターを訪れた方には、何かを学んでいってほしいですね。そして、何かのきっかけで学んだことを思い出していただきたいです。語り部さんたちは、同じ震災でもそれぞれ違う体験をされています。でも、「私たちが語り継いでいこう」という思いは、皆さん同じであると思います。


(インタビュー 2006年5月2日)