震災を語る

震災を語る 第20回

第20回「誰もが当たり前にできる小さなこと「ボランティア」で心豊かに」河東 めぐみさん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

開かない鉄の扉、脱出するためにとった行動とは

「まさか、自分のところに地震は起きないだろう」と、あの日まではそう思っていました。

1995年1月17日、保育所に勤めていた私は早出のため、午前5時30分には起床し、着替えを済ませていました。まだ少し早いと思い、再び眠り込んだその時、地震は起こりました。暮らしていたのは須磨海岸近く、震源地だった淡路にもほど近い場所です。

ちょうど連休明けの火曜日の朝、夫は休みを利用して東京の実家に。3人の子どもたちはみな成人して別に暮らしていたため、家には私ひとりでした。ドーンという大きい揺れに、はじめは何が起こったかよくわかりませんでしたが、次の激しい横揺れに「これは地震だ」と気づきました。リュックやジャンパーを置いていた扉のところまで行ってみましたが、鉄のドアは曲がって開かず、あたりは真っ暗。トイレへ移動した私は便座からトイレの水槽に上り、トイレの窓から靴下のまま飛び出しました。

まったく繋がらなかった電話が通じた、その方法とは?

【写真】河東 めぐみさん

北区に暮らす妹宅へ、公衆電話からテレホンカードを使って30分ほど電話をかけましたが、まったく繋がりません。そこで10円玉を入れてみたら、なんと1発で通じました。「すぐ行く」と言ってくれた妹とご主人は、いつもなら15分の距離を3~4時間もかけて昼前に車で迎えに来てくれました。

あちこちで火災が起きている長田区を車で避難、このまま妹宅にしばらく住まわせてもらおうかと思ったのですが、その日のうちにご主人の方のご家族や知人で人数が増えて満員に。夕方、塩屋に住んでいる息子一家5人が車で迎えに来てくれました。3日間ほど食べ物のない生活をし、団地が全壊で家には戻れなかったため数日後には大阪へ避難。その年の12月中旬まで、大阪から神戸まで電車を乗り継いで仕事に通っていました。

震災後にはじめて知った「身体の大切さ」

勤めていた保育所は震災後、避難所となっていました。私たち保母は食事や衣類の配給を行ったり、保健婦さんや看護婦さんに付き添って避難所を回ったりする日々。神戸市の被災者への貸付金手続き事務を手伝いに行ったこともありました。また、近所の子どもたちの家に様子を見に行き、物資を配ったりもしていました。軽い腰痛はあったものの、私は元気バリバリでした。それでも過労にはかなわず、7月に腰痛で動けなくなり、救急車で運ばれてそのまま1カ月の入院と1カ月のリハビリを余儀なくされました。動けなくなってはじめて、身体の大切さを知ったのです。

神戸市民が贈られて役に立ったもの

震災後、日本国内をはじめ海外からもたくさんの救援物資をいただきました。その中で、とくに役に立ったものは「防寒具・懐中電灯・飲み水・すぐ食べられるもの・携帯ラジオ・トイレットペーパー・生理用品・電池・ウエットティッシュ・手袋(軍手)・小銭(10円玉)・肌着・カセットコンロ・紙コップ・カイロ」などです。つまり、皆さんが日頃から備えておく時にこれらを準備しておくと、きっと重宝すると思います。

忘れられない「粉ミルク」と「赤ん坊」

【写真】河東 めぐみさん

保育所で物資を配ろうと思い、ふと粉ミルクの缶に目を向けました。そこにはヒンディー(インドの文字)が。インドからの救援物資だったんですね。私たち夫婦はこれまでに海外をあちこち旅してきたのですが、その中でもとくに印象的だったのがインド。当時はまだカースト(身分制度)が残っており、私たちはそこで貧富の差を目の当たりにしました。

旅の途中、壁の修理の仕事をしていたご夫婦の脇に小さな赤ん坊が寝かされているのを見つけたんですね。10カ月になると言いますが、抱かせてもらったら本当に軽く未成熟な赤ちゃんで、ひどく胸を痛めました。そのインドから神戸への救援物資として、私たちは粉ミルクをいただいたのです。母国で有効に使ってほしいくらいでしたが、そうした皆さんの支援の心が本当に嬉しかったことを覚えています。

これまでにたくさんの途上国を訪れましたが、空腹を満たす食べ物がなかったり、今日を生き延びるための水を求めて何時間も費やしている国があることも事実。災害時の神戸のように、日常的にそうした状況にある国が今もたくさんあること、これも頭の片隅に残しておいていただけたらと思います。

日本人が忘れてしまったこと、それに気づかせてくれたのが地震でした

地震を体験してから、日常生活についての意識というものも少しずつ変わってきました。海外を見て歩くうちに、人々の生活や心に興味を持つようになったことも大きかったですね。日本人は、水の大切さや「モノ」が溢れていることを忘れてしまっているんです。毎日の生活に余分なものがありすぎて、本当に大切なものが見えなくなってしまった。そのことに気がついてからは「節約を心がけ、地球を美しく」という気持ちが強くなりました。須磨海岸という海の近くに住む者として、まずは「海をキレイに、水を大切に」と思い、お風呂の水を洗濯だけでなくトイレにも再利用したり、浜辺のゴミ拾いなどもするようになりました。「買い物袋を持参する」そういった小さなことからでいいんですね。

誰もが当たり前にできる小さなこと、それも立派なボランティア

阪神・淡路大震災で被災するまで、ボランティアは「お金も時間も充分にある人が、困った人のために何かをしてあげること」だと思い込んでいました。地震の数日後、区役所の貸し付け当番をしていた時に、ある方からおにぎりをいただいたんですね。それが、とっても嬉しくて。ボランティアは「特別なことじゃなくていい」「誰にでもできる」「小さいことでもいい」そう思ったんです。地震の経験から、何か自分に合ったことができるのではないか…と考えていくうち、いくつかのボランティアをはじめるようになりました。そして今も、こうして続けています。私の場合、ちょうど定年で時間ができたこともきっかけになりました。定年後の人生はパートで働くより、ボランティアで心豊かに暮らしたいなと思ったんです。

語り部として震災で体験したことをお話しするのは、「自分ならどうしたらよいか」「何を備えておけばよいか」を各自で考えてもらうことを目的としています。とくに未来のある方、たとえばこれから大人になる子どもたちや若い世代、そしてそのお母さん方へ啓発の意味を込めて、たくさんお話ししていけたらと思います。


(インタビュー 2006年5月19日)