震災を語る

震災を語る 第22回

第22回「いざという時の正しい判断とは? その時、私のとった行動とは」末吉 正和さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

震度7は常識はずれ。「生きるか死ぬか」の体験です

皆さんは「震度7」の地震を体験されたことがありますか? だいたい震度3~4で座りの悪い物が落下、震度5になると構造物に被害が及びます。そして震度6は「烈震」と言って、倒壊家屋が出てきます。

それ以上のものは、すべて震度7。「激震」に分類されます。階上の人間までもが落下物になるという、常識はずれの体験…それが震度7。ケガをするのは当たり前、「生きるか死ぬか」という恐ろしい状態です。

忘れもしません。震災の4日前、1月13日は金曜日でした。そう、「13日の金曜日」です。「何か起こりそうだ。家に何かが起こりそう。たとえば泥棒が入るとか…」「そうですか。交通事故だけには気を付けて帰ってくださいね」仕事を終えた帰り道、そんな不吉な予感について仕事仲間と話した後、私は足早に家路につきました。もちろんその時は、まさかこれほど大きな地震が神戸を襲ってくるとは、そして仕事で防災計画を策定させていただいている私が被災するなんて、考えてもみませんでした。

14日からの3連休明け、17日は気ぜわしいスケジュールの予定でした。会社の年度末にかけての仕事の追い込み、そして数日後に迫っていた手術・入院…。実は私、甲状腺ガンを患っており、喉首は気管が開きっぱなしの状態。2度目となる手術をその月の25日に控え、祝日だった16日は、家族で宝塚の地蔵様にお参りに行ったり入院の準備をしたりして過ごしました。

夢なのか、現実なのか…ゴジラが我が家を襲撃!

その夜、私は夢を見ていました。それは、息子と観たことのある「ゴジラ映画」の世界。映画の中では、ビル街や原子力発電所などを攻撃してくるゴジラが、その時はなぜかただの住宅地の中にある私の家の方に向かってきました。運悪くゴジラと目が合ってしまったその時、私の方に向かって何かを投げつけてきました。頭に命中してゴーンッ…と、ここで目が覚めました。ゴジラと対している悪夢からやっと現実にもどりました。そして、何と、その現実は悪夢よりはるかに恐ろしい現実だったのでした。

地面と家がこんなに震えるなんて何かおかしい、可笑しいぐらいだ―布団の中、そして心の中で私は笑いました。天井が落ちて来るというより、床が抜けるような感じです。「あぁ落ちる」と思いました。2階で寝ていた私の布団の真下にあたるのは、1階のリビングルームです。そこに自分が落ちていくのを覚悟。「どうせ落ちるのなら、この布団の中のままで…」と、布団を内側からグッと掴みました。

幸いにも身体がリビングルームに落ちることなく、激しい揺れはようやくおさまっていきました。夢の中でゴジラが私の顔面に直撃させたものは、寝ていた部屋にあった洋服ダンス。しばらくは起きあがれず、心身ともに大きなダメージを受けてしまいました。

妻は? 子どもたちは? 両親は?

【写真】末吉 正和さん

ここからは初体験の連続です。今まで経験したこともない「まったく無音」の世界。耳鳴りなどでも自分の身体の音は聞こえたりしますが、そういう音も何も聞こえないんです。これは本当に恐ろしかったですね。どれくらいの時間が経ったころでしょうか、どこか遠い遠いところから非常ベルの音がジリリジリリと聞こえてきました。続いて、外の通りから人の声がしました。ここでようやく「聴覚」を確認でき、ホッとしたことを覚えています。

我に返ったところで、まずタンスを押し上げて布団の中から這い出しました。そして、まずは家族、妻子の確認です。私は当時43歳。妻と小学校1年生と1歳になる子どもがおりました。隣の部屋に行くと、妻子は瓦や崩れた壁や天井の土や埃まみれの布団の中にいました。妻を見ると、見慣れた真っ白い顔。妻はよく美容パックをしていたのですが、あの時の顔と同じで目だけがキョロキョロしておりました。

とりあえず皆の無事を確かめ、妻子にはそのままでいるよう指示。玄関に下りて扉を開け、外へ出て母屋の方を見てみると、そこには空間が広がり足元は瓦礫の山でした。私の生家でもある母屋は跡形もなく崩れており、両親は即死だと思いました。

続いて外の通りに出てみると、暗い中にいつもの町並みはもうありませんでした。私が住んでいたあたりは、全壊率90%という地域だったんですね。しかし、近所のこの見慣れない景色の中見慣れた顔が少しずつ集まって来て、その時にも何だかホッとしました。ところが、すぐにガスの臭いが漂って来たんです。私はとっさに「ガスだ、爆発になるぞ、逃げろ!」と叫びました。せっかく集まった見慣れた顔は散り、私も急いで家に戻って妻子を布団から出しました。

緊急時の正しい判断とは何か-私のとった行動とは

さて、あなたがこの時の私と同じような緊急事態になった時、どういった行動をとりますか? 両親は倒壊家屋の下に埋まったままです。助けますか? それとも無事が確認できている家族4人で逃げますか? それとも?

私は「気象コンサルタント」という職に就いており、長年、防災関係の仕事をしてきました。ですから頭の中に非常スイッチがあって、これでもやや冷静な方だったと思います。「生きることが先決」そう判断した私は、まず生きているこの家族4人だけで避難することを決意しました。玄関に備えてあった懐中電灯を取り、着の身着のままで外に出ると、再び両親の方を見ました。2回ほど呼びかけて反応がないことを確かめ、あきらめました。「まず、生きているこの4人だけは絶対生き抜こう。いま生きている人間を死なせないことが鉄則だ」そう思っての判断でした。

近所の小学校へ避難し、水道の蛇口から管内に溜まっていた水を子どもたちから順にすすりました。少し落ち着いた時、窓の外が明るくなってきていました。「両親はどうなっているだろうか」「あぁ、こんな状況で両親の葬式はどうしようか」そんなことを考えながら、私はひとり、我が家へと向かいました。

心強かった、近所の方々のサポート

両親の寝室があったあたりには、もう手足から血をにじませた母が立っていました。母は、なんと自力で瓦礫の中から這い出していたのです。

父はというと、家の天井とタンスの下敷きになっているようでしたが、こちらもまだ生きていました。身体の上には幾重にも柱が重なって私たちには手の付けようがない状態。やがて知り合いの大工さんが来て、将棋の「積木くずし」の要領で家の瓦礫を剥がしてくださいました。近所からはみるみる人が集まり、「ガンバレ、ガンバレ」のありがたい声援。救助作業を見守ること約2時間、父はようやく引き出され、担架代わりの畳の上にのせられました。この間、私は父の挟まれていた部位を必死でさすり、揉みました。結果的にこのマッサージが救命に至り、知り合いの皆さまのお力をたくさんお借りして、父は一命を取り留めることができたのです。

時間とともに、少しずつ見えてきたこと

両親を含めた一家6人の命が守られ、避難所の体育館に落ち着いたころ「顔から血が出ていますよ」と告げられました。地震でタンスが額に当たった時の傷を、すっかり忘れていました。同じ被災者である医師が保健室で頑張っており、私の額を診ていただくと傷は浅いとの診断。それより「この喉はどうしたのか」と。私の喉は絆創膏の下、気管の切開が途中であることを告げた時、改めて私自身がガンの再手術前であったのを思い出しました。生死をさまよった父の安否を最優先にした、地震からの1週間。その後、わが家の復興を考えました。そして1月の予定だった私の手術は、7カ月遅れの8月に。まさかこの人生で、ガンより怖いものに出くわすとは思ってもみませんでした。私にとって1995年1月17日とは、自分がガン患者であることを忘れさせられた日でした。

たくさんの感謝の気持ちを、私なりの形でお返ししたい

【写真】末吉 正和さん

私はこの震災を体験し、有形無形のありがたい支援をたくさん受けてきました。「実体験者として、今度は私の方がそのお返しをしたい」「後世に語り伝え、未来の防災の一翼を担いたい」そう思って、語り部活動を行っています。皆さん、自分という人間は、身のまわりの人々によって支えられて成り立っていることを忘れないでください。友だちも大切にしてください。平素からも自分の行動には責任を持っていて下さい。特に、自分の回りの方は皆、自分のかけがえのない財産と思って下さい。それは、いざという時、どうしても人間は大切な人から助けるようです。

私は気象コンサルタントとして数々の防災計画にかかわってきましたが、実際に被災し、人間の強さ弱さを改めて痛感しました。以前、防災計画の策定中に「人間は、直接大雨によって死ぬのではない。大雨による洪水・土石流で溺れ、埋められて死に至る」と伝えました。そして、この被災経験で「人間は直接地震のゆれによって死ぬのではなく、地震によるビル家屋の倒壊や家具の下敷きになり圧死する。あるいは、出火による炎で焼死に至る」と伝えています。

いま一度、防災の原点を問い直し、社会の一員として災害を未然に防ぐ努力をしていきたいと思っています。


(インタビュー 2006年5月20日)