震災を語る

震災を語る 第26回

第26回「家族より職務を優先、それは消防職員としての責任でもあります」藤戸 正万さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

地震発生! 消防署へ駆けつけるのが私の使命

震災当時、私は尼崎市内で消防署長をやらせていただいており、尼崎市内に単身で暮らしていました。家族が住んでいたのは、神戸市垂水区。家族とは離ればなれの状態で震災を体験しました。私のところは、1階が店舗で2階が住宅という1DK。朝5時にはもう起床していました。いきなり「ドーン」と下から突き上げるような揺れと同時に、室内のタンスや台所の冷蔵庫が倒れ、建物はユサユサ揺れ、隣のアパートが倒れる音を聞きました。最初は「建物に何かがぶつかったのでは?」と思いました。その後すぐに地震だと思い、頭から布団をかぶって揺れがおさまるのを待ちました。揺れは15秒くらいだったように思います。「これは大変なことだ!」と感じ、職業上、消防署に駆けつけるべくいつも枕元に置いている作業服に身を包んで外に出ると、住人4~5人が路上に立っていました。

「服装と自転車」という、とっさの判断

「皆さん大丈夫ですか?」と声をかけると「大丈夫です」と答えてくれました。緊急時に使うバイクに乗ろうと置き場に行ってみると、バイクは倒壊した建物の下敷きになって動かすことができず、徒歩で近くの消防分署へ向かいました。しかし、消防の作業服を着ていると周りから色々声をかけられたり、助けを求められたりして途中で身動きができなくなると直感的に判断。いったん自宅に戻り、トレーニングウエアに着替えて分署に向かいました。

その途中、医院前で自転車を所有する65歳くらいの女性を発見。「自転車を貸せ、緊急事態だ、命令だ」と言い、私の職業や勤務先、名前を伝えてその自転車を借り、消防分署へ駆けつけました。到着したのは、地震から10分くらい経った頃でしょうか。3台の消防車輌はすべて出動中。本署との連絡用電話を使って、迎えにくるよう命令。2キロほど先から約5分後に到着した消防車で本署へ移動すると、消防署の建物は無事でした。数人の職員がすでに集まってきており、「よい部下を持った」と安心しました。

40年にわたる消防人生初の体験とは

【写真】藤戸 正万さん

消防署の北方100メートル付近では炎上火災が発生し、猛烈な勢いで黒煙を噴き上げていました。ただちに作業服を着用し、防火装備を行って火災現場に向かうと、中隊長が「署長、水が出ない」と進言してきました。私は「地震の時、断水は当然だ。消防が火事を消さなくてどうするんだ」と叱咤激励。近くの河川や工場の水槽から取水活動を行うように命令しました。その頃には、地元消防団の車輌も3台到着していて心強かったですね。消防団の指揮者に取水して消防署の車輌に送るように命令すると、数分後には放水可能になり、消防団員と協力して鎮火することができたのです。震災時の火災で、「消火栓の断水」「消火活動が困難な状況」「他の署からの応援はなし」などといった悪条件を40年の消防人生で初めて体験しました。

目に飛び込んできたのは、壊滅した都市の哀れな姿

消火活動が一段落して消防署にいったん帰ると、消防署内における注意事項について避難者に指示・命令を行いました。職員に今後の対応と管内調査の指示を終えると、被災状況の調査へと向かいました。「新幹線の橋げたの落下」「木造2階建アパートの1階が崩れて平屋に」「鉄筋コンクリートアパートの倒壊」「ガス漏れ発生」「水道・電気・交通機関の遮断」「コンビニに長蛇の列」といった悲惨な状況が、次々と目に飛び込んできました。それらは、今までに経験したことのないような光景ばかり。大きな衝撃でした。

本当は心配でならなかった家族。感謝の気持ちでいっぱいでした

震災当日の午前中、家族に電話をかけてみると運良くつながりました。「大丈夫か?」とたずねると、「お父さん、すぐ帰ってきてください!」と電話口で妻の叫ぶ声。「消防職員という立場上、帰ることはできない。消防職員の妻ならば、自分の身は自分で守れ」と強い口調で言い、電話を切りました。消防署の最高指揮者でしたから、そこはやはり職務が最優先です。4日ほど経った頃でしょうか、大きな余震があったので、もう一度家に電話をしてみました。「大丈夫か?」と問うと、「大丈夫です。しょうもないことで電話してこないで。あなたはあなたでしっかりやりなさい!」という妻の答え。もう開き直って、強くなっていましたね。

家族が待つ神戸市の自宅へ電車やバスを乗り継いで一時帰宅したのは、2月初旬頃になってからだったと思います。家族の元気な顔を見て、安堵しました。「あなたは肝心な時におりませんね」妻にはそう言われてしまいましたが、私が不在の間、親子で頑張っていてくれたことに心から感謝。いざという時には、息子が頼りになってくれたようで、妻が感心しておりました。「母親を守らなきゃ」と思ったんでしょうね。消防職員の息子として、子どもは子どもなりにそういうことを感じ取っていたんだと思います。

周囲の温かい支えがあってこそ。「助け合い精神」の大切さを痛感

【写真】藤戸 正万さん

尼崎市内のライフライン(水道・電気・ガス)は、一部の地域を除いて1週間くらいで復旧しました。一方、長期間復旧のメドが立たなかった神戸市内にいた私の家族は、近所の友人や知人に助けられ、また、給水・食糧の補給などの援助もあり、私が不在の間も無事に生活することができており、大変感謝しました。

私が勤務する消防署にも、地震の翌日から飲み物や食べ物の差し入れが届き「消防さんご苦労さん」「あなたたちも被災者なのに、市民を守ってくれてありがとう」などと多くの声をかけていただき、これにも深く感謝しました。町と消防とのつながりの大切さ、また震災を教訓として「人と人」のつながりの大切さも痛感しました。

力及ばず…それでも胸が熱くなった現場エピソード

救出活動をする中で、2階建てアパートの下敷きになっていた20歳くらいの女性を助けてあげられないことがありました。かわいそうでしたが、消防職員と消防団が力を合わせても、人間の力ではどうにもならないこともあるんですね。何とも言葉に表せない思いでいた時、彼女のお父さんが「消防さんはよくやってくれた、ありがとう。一生懸命助けてくれた、それでも助からなかった…消防さんは悪くない」と感謝の言葉を述べられました。取り乱すことなくそういう言葉を発せられ、なんと立派なお父さんだろうと思ったのと同時に、ホロリと涙がこぼれました。

日頃の備えや近隣とのコミュニケーションには、大きな意味があるはずです

消防職員として、日頃から地震発生時の対応については検討研究を重ねてきたつもりでした。しかし、残念ながら自然界の猛威を前に、人間の力がいかに弱いものであるか身をもって経験することとなりました。この震災を教訓に、全国では「自主防災組織」の結成促進が図られています。自然災害はいつ、どこで起きるかわかりません。だからこそ、日頃から一人ひとりが災害時にいかに行動すべきかを考えておく必要があるでしょう。自分たちの生命、財産は自分たちで守る―行政機関と一体となって災害対応訓練に積極的に参画したり、日頃から近隣の方々とコミュニケーションを図っておくことにも大きな意味があると思います。

私は定年退職したのをきっかけに、これまでの経験を活かして防災ボランティアで恩返しをしようと思いました。このセンターを訪れた意味を、1つでも勉強して帰っていただきたいですね。子どもたちからご年配の方、また皆さんの職業やお立場などに合わせて、体験に基づいたお話をしていきます。とくに、消防団の方などには私の経験をじっくり伝えられたらと思いますし、質問があればしっかり答えていきたいと思っています。


(インタビュー 2006年5月21日)