震災を語る

震災を語る 第36回

第36回「「父との別れ」から生きることの大切さを伝える」室田 千江子さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

「父との別れ」

1995年(平成7年)1月17日早朝激しい揺れに恐怖のため身動きできずにいた。

震源地は近い、不気味に余震が続く、止まった時計の針が5時46分を指していた。

あたりはまだ真っ暗だった。やがて少し明るくなり始めたころ停電も解除された。幸い北区にある我が家は被害も少なくほっとしたが、テレビでは神戸全域にわたりかなりの被害が出ている様子を映し出していた。 同じ市内で地域によりこんなに差のあることを知って驚いた。

昼過ぎ、妹の電話で父母のことを知った。勿論それまでに気にかかり何度も電話をかけるが、電話は通じなく混線ばかりその隙間に妹の電話が通じたのだ。

年老いた両親は長田区の西代駅付近に二人で暮らしていた。家は戦前に建てられた平屋で、 この地震ではひとたまりもなかった。父は全壊の家の瓦礫に埋まり、母もまた、下半身が埋まって身動きできず、「助けて!」と何度も大声で叫び、ようやく通りかかった近所の人に引き出してもらったという。母が「お父さんが埋まっているから助けて!」と言ったが 「生きている人が先だ」と言われ母は避難所に連れて行かれたという。妹が母に付き添い、 夫と私は何はともあれ長田へと車を走らせた。途中は道路状況も悪く道はウエーブがはいり、がたがたと激しく揺れる。電線がじめんにぶらさがり、電柱や家が道路に横たわり通行禁止区域ばかり日ごろは30分で行っていた道が迂回を繰り返して4時間もかかった。私たちは父が収容されている場所を探しに近くの避難所である小学校へ行った。ドアを開けるといきなり沢山の人が厳寒の中、コンクリートの上に毛布を敷きしゃがみこんでいた。ツンと異臭が鼻を突く、目の前にあるトイレの水が出ないため溢れているからだ。こんな状況ではそれさえも仕方のないことと人々は我慢をしているのだ。

係りの人から遺体収容場所はそこから15分ほどのところにある村野高校ではないかといわれ、急いでそちらへ回った。冬の日暮れは早く辺りは薄暗くなっていた。高校の体育館には数百の遺体が並べられていた。わずかに裸電球が三、四個ぶら下がっている中、 遺体には番号が着けてあり、父をこの中から探すのは至難の業と途方にくれた。周りの人に聞くとドアに番号と名前が張ってあると教えてくれた。

番号と名前を見つけたとき、一瞬息を呑んだ。胸がどきどきと高鳴り、父の死が現実のものとなった。おそるおそる父と対面する。意外なほど安らかな顔だ、まるで寝顔を見ているようにさえ感じた。「お父さん」そっと呼んでみた。もう一度「おとうさん」薄暗い灯りにもかかわらず、父の顔は白く見える。よくよく見ると壁土に埋もれていたための白さだった。水も出ないので手持ちの濡れティッシュで顔を何度も何度も拭いていると、頬のところが異常に硬いのに気づいた。父は口の中にいっぱい壁土を吸い込んでいたのだ。少し開いた口に手を入れて掻き出そうとした。父の顔が涙で見えなくなった。

奇しくも生き残った母は、半年の入院で怪我も克服し仮設住宅に移った。その母も今年98歳の高齢で命を繋いでいる。父の分まで・・・

語り部として

あれから17年の歳月が経った。震災を知らない子供も増えてきた。なんとか語り繋ぎたい気持ちで人と防災未来センターへ語り部として応募してみた。幸い採用していただいて 今日に至っている。

生きることの大切さ

また「災害は忘れた頃にやってくる」の格言どおり東日本で大地震が発生した。日本は地震国だ。いつどこで揺れてもおかしくない。その度に多くの犠牲者が出る。生きることのありがたさ、目が覚めたら朝が来るこんな当たり前の出来事は生きている者に与えられる幸せである。そして、この大切な命は輝けるものでありたい。と若者たちに伝えたい。

経験を風化させないために

東日本での地震は津波をひきおこした。わたしは10年ほど前から学校や、児童館などで、和歌山県で起きた津波の紙芝居をしている「いなむらの火」原作小泉八雲。今から150数年前現実に起きた話である。庄屋五平衛がいち早く津波を察知して村中に知らせるため自分の大切ないなむらに火をつけてみんなを高台に招き寄せ命を救ったと言う話である。その後村の復興のため私財をはたき村に大堤防を作りその後に起きた津波から村が救われた。今もその堤防は残っている。こんなに古くからお手本が残っているのだ。

講話の中に取り入れて来館者に時間があれば紙芝居を演じている。

心に残る講話になるよう頑張って続けたいです。風化させないためにも!