震災を語る

震災を語る 第40回

第40回「私と阪神・淡路大震災そして防災ボランティアとしての私」中田 篤彦さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

自宅の被害度

西宮市の甲子園球場へは徒歩10分の自宅は築16年、鉄骨造りの三階建てで堅固な建物であったが、1階が大破し半壊認定を受けた。

しかし、家族全員は無事で92歳になる義母等は自宅で暮らせないため岡山県境へ疎開させることにしました。

避難所めぐりと後方支援

私は県職員で、当時は神戸市西区の県立施設で「身体障害者の社会リハビリ訓練施設」の運営を担当しており、通勤時間は通常1時間半のところを、地震後は6時間半をかけて出勤しました。鉄道、道路すべてストップ、電気、ガス、水道、電話などライフラインが長期にストップといった状況でしたが、身体障害者住宅の人々の一時保護や訓練再開に向けた準備を行いました。その後は、北海道、埼玉、愛知県警のパトカーでの避難所めぐりと後方支援を行いましたが、避難所のトイレ事情は大変なものでした。

災害とその対応の経験

その後、社会福祉関係者の研修責任者として神戸市灘区に転勤していましたが、平成9年にロシアタンカー石油流出事故があり、ボランティアとして但馬海岸での付着油の除去作業を行いました。

また、平成17年には福知山線脱線事故があり、当日は大変なショックを受けましたが、その後、職場教育、災害時救急医療、企業の社会貢献、悲嘆講座、失敗学のすすめなどに学ぶところが大きく、毎年1月17日には震災のメモリアル・ウオークを続けながら、学び、考える毎日でした。

そんななかで、社会福祉士、精神保健福祉士、防災士といった資格とともに防災ボランティアとして活動していますが、少し心配なのは、冷たい社会化の恐れということです。超高齢化社会が進むなかで、孤独死や無縁社会の問題がクローズアップされ、冷たい社会化現象が進むことを恐れています。その反面で若いボランティアが多く東日本大震災被災地に向かう姿を見ると、まだまだ日本は大丈夫だと考えますが、東日本の復旧・復興と再生をともに進めたいと考えています。

災害の経験を語り継ぐ

忘れたい経験、悲嘆経験そして、被災地にあって受けた支援を伝える必要性を感じ、語り部として活動していますが、そのなかで、防災とともに減災についても伝えることの重要性を感じています。巨大災害後では、想定外ということがよく言われますが、少し無責任だと思います。事前に予知することは困難だとしたら、被害を少しでも軽減する減災に努めることが求められます。そのため、人と防災未来センター、関係機関、大学等主催の講座に参加することより、減災の知識、経験蓄積に努め、防災の知識を増やす努力をし、少しでも講話の中に取り入れていこうと考えています。

阪神・淡路大震災から気づいたこと

阪神・淡路大震災は、ボランティア元年と呼ばれ、NPO法制定、被災者支援法制定と制度は充実の方向に向かったが、防災の地域協力については、まだまだでした。自助:共助:公助の比率は7:2:1位でしょうか、自助が一番ウエイトが高い、そのなかで、家族でしたいことの第一は、避難の仕方や連絡の取り方を日頃から打ち合わせておいて、津波の場合は、めいめいが、てんでに高い所をめざして逃げる「津波てんでんこ」ということが津波からの教訓でした。命こそ宝であり、失った生命の再生は不能です。

減災のすすめ、生活の見直し

安心安全の地域づくりを進めることは重要なことであり、災害弱者をなくすためにも、個人情報の保護は大切ですが、住み暮らす地域の安全安心を高めていかなければなりません。これからの世代に期待することは、南海、東南海、東海地震の三連動巨大地震や首都直下型地震等に備え、津波のメカニズム、コンビナート火災、津波火災などについての知識を増やし、巨大災害に備え、必要なくらしの再生の視点をもつことが重要と考えています。