震災を語る

震災を語る 第42回

第42回 全国初の緊急時食糧調達協定の実践に奔走 重元 勝さん(人と防災未来センター・語り部) 阪神淡路大震災の時に、コープこうべ生産事業部長兼工場長として、神戸市避難者向け食糧の70%調達に向けた苦難と様々なドキュメント

私の体験

震災後、緊急食糧調達協定による効果的な取り組み

私が統括している工場は神戸市内でも非常に珍しく、毎日食べる『日配食品』と言って、パン類や麺類、豆腐類、和洋菓子類、こんにゃく類、納豆、煮豆等々700種類くらいの食品総合工場で、従業員は関連会社の方々も入れると1,000 人規模で24時間稼動の総合食糧生産を年商160億円規模で事業展開していました。

震災後、緊急食料調達協定の実践により神戸市内の避難者の食糧19.5万食の70%の食糧を工場から配送し、恒常的なパニックを発生させずに済ませることが出来、全国のマスコミから数多くの紹介を戴きました。震災1年後の記念番組のテレビでもドキュメンタリー報道で15分放映されました。その後多くの自治体と生協、スーパー、百貨店、等との間に緊急食料調達協定が結ばれ、今では全国殆どの自治体で協定が締結されています。

もともと、緊急食料調達協定はオイルショックの時にできた協定で、パニック防止3原則を具体的にどう実行していくか。その為には有事の際に流通過程にある商品を即座に配送する仕組と、行政との連携が絶対に必要だという認識から生まれた協定でした。全国初の緊急食糧調達計画の実践までに15年間に及ぶ毎年のメンテナンス作業を地道に続けてきました。

様々なドキュメント

トップの決意
コープこうべの竹本理事長はパジャマの上に革ジャンを着用して第一番に本部に来ていました。倒壊した本部の前で仁王立ちして『わしは戦うぞ』の言葉を発し、『重元君に工場のことを任す』と現場に権限を全面的に委譲すると指示があり、あわせて『まず水と食糧を全力挙げ調達せよ』と明快に指示された。
マスコミ報道の限界
略奪行為は目の前で展開され、パニック状態を止めることが出来なかった。このままいけば完全にパニック状態が恒常化してしまうので、食糧と水の調達を命に懸けても前進させるという強い強い決意をしました。略奪行為は東北大震災現地支援時に数多く聞かされました。マスコミは決して略奪行為を報道していません。放射能問題でも初期の段階では安全であることだけしか報道していないのとよく似た現象で、極めて重要な内容は恒常的なパニックを起さない為に報道されないものと感じています。
様々な工夫と被災者の反応
食糧配送は困難を極めましたが、様々な工夫を凝らしました。震災現地で震災初日から私達が『緊急食糧調達車両』の大型掲示盤を手作りして車両に貼り付けました。助手として管理職メンバーをハンドマイク片手に道路交通整理や危険箇所の点検に誘導員として配置しました。車両には道路上の亀裂や様々な障害を乗り越える為に鉄板を積載して走行しました。私自身も近隣への配送時に助手として乗車しました。平均して平常時の4倍の(12時間)かけて配送の往復を続けました。火災発生地区では火から身を守る為に47時間もかけて配送をした人もいました。今でもそのときのことを思い出すと胸が熱くなります。食糧搬送先では被災者の長蛇の列がみられましたが幸いにしてコープの店の前ではきちんと整列した状態で、住吉駅前のシーア店では被災者に荷降しや屋外の荷物の張り番まで手伝って戴きました。
超法規対応は不可欠
工場と直線距離450メートルの場所にあるLPGタンクのガス漏れが発生し、8km四方の住民に対して避難指示が出されました。勧告とは異なり行政執行権が伴う命令です。道路の交通は完全に遮断され、海上交通も護岸が全て破壊されている為に使えません。そこで自衛隊の大型ヘリコブターで食糧搬送を依頼しましたがその当時法律上対応できないという返事でした。対象は緊急医薬品と急病人や重傷者で食糧は対象外と言うつれない返答でした。三度の交渉で略奪行為が発生していることなどの認識がやっと得られ日本で初めての大型ヘリによる食糧搬送を実施しました。現在では法律上も可能なように改正されています。
また、部下を危険な場所に呼び戻すことは相当躊躇しましたが、県警本部長に避難指示の撤回を電話で依頼しました。県警本部からは即刻OKの返事がもらえました。この反応時間の格差は神戸市にいる県警本部と東京にいる防災局本部の情報格差が大きな要因として考えられます。スーパー広域災害の場合は現地に対策本部を置くことで、情報を肌で感じることが出来、即決即断できることが数多く見られました。災害は即時対応が求められることが多く、現地に災害本部を置くことが大切です。

自助なくして共助、公助なし

公助(警察、消防、自衛隊から助けてもらう)はせいぜい1割です。自らの命を助けることが出来ない限り共助もありません。我が家も娘が倒れた箪笥に囲まれて寝たままの姿勢で閉じ込められましたが、家族で助け出しました。声を上げることができない状態でしたが、箪笥をたたくことで生存が確認できました。家具の倒壊防止は即刻実施しました。(阪神大震災では箪笥が凶器になり死亡例が沢山ありました。)彼女はこのことを契機に初めて震災ボランティアで被災者支援に立ち上がりました。 工場では震災時500人の従業員が働いていましたが、けが人がたった1人だけでした。警察や消防から再調査を何度も言われましたが、間違いなく一人だけでした。理由は年間14回にも及ぶ避難訓練を徹底的に実施していました。避難訓練は自らが身体を使って行うことが肝要です。身体で覚えた事は忘れません。工場のラインまで止める大訓練を年間2回トップ判断として実施していました。従業員の命を守るのは最低限守らなければならないトップの使命です。真剣に避難訓練をしない職員(ペチャクチャ喋っている人や笑いながら訓練している人)には再度訓練やり直しを命じました。そのようなことで非常に評判の悪い工場長でしたが、しかし震災後の私の評判は最高の評判になりました。県下全域で6,434人の死者のうち工場のある東灘区は1,300人を超す死者を出した最悪の死亡被災の区でした。そのような区内で突出して死亡被災者のない工場として全国でも注目を集めました。又工場自体で工務担当者を多数抱えていた為に、電源遮断や、大阪ガスの本管バルブ弁の遮断も大きな被害を未然に防ぐことが出来たことも大きな要因です。更には工場全体の安全担当の位置づけを工場長直轄部署として緊急時の体制や権限委譲を明確にしていたことも大きな被災を招かずに済んだ要因です。全国各地にこの教訓を講演して廻り、自助の重要性を話してきました。

1,000人の部下の安否確認も非常に大事なことで、最大部署の責任者として最後まで苦労したことです。避難所や死体置き場まで捜索班を結成しての捜索を続けました。瓦礫に埋もれて3日後に救出され正気に戻ったのが1週間後になった部下の発見で、やっと全職員の安否確認が出来ました。(コープこうべ内部で安否確認が最も遅れた所属でした。)、一人の職員死者も無く済んだことは偶然なのかもしれませんが本当に嬉しかったことです。『人の命は天地四海よりも重し』の言葉を実感しました。