震災を語る

震災を語る 第43回

第43回 災害は忘れた頃にやってくる 山田 耕祐氏(人と防災未来センター・語り部)

私の体験

(新聞を手にして)これは、いつものようにポストに投函された17日の朝刊。その直後に天地が動いた。 5時46分。マグニチュード7.3。震度7。烈震。18日、19日、20日とこの朝刊の見出しによって激増する被災者の数を目で追う。そして10年。その数は6434を数える。今、私が手にしている新聞は戒めの証である。

平成7年1月17日 午前5時46分 その時

私は2階の和室でいつものように眠っていた。突然猛烈な揺り動かしにあう。「これは地震だ!」意識が戻ってから長く長く感じた10秒であった。家内が「お父さん重たい、何かが被さっている」となりの部屋から娘達が「お父さん」と叫んでいる。電気を付けようとすると既に停電で真っ暗。「懐中電灯どこにあった」「1階の玄関の下駄箱」やっと探し出してスイッチを入れる。その時の光景は今も網膜に焼き付いて消えない。壁はひび割れ、家具はひっくり返り廊下は足の踏み場もない。「スリッパをはいて降りておいで」と叫ぶ。肩を寄せ合って明るくなるのを待った。その間も余震がくる。そのたびにぞっとした。後で分かったことだが、家内の上にタンスの上半分が落ちてきたらしい。ちょうど私と家内の布団の間に落下したようで、すんでの所で命拾いをした。

庭に出て見ると屋根瓦が散乱し、隣の家の壁がはげ落ち、お年寄り達が震えて立ちすくんでいた。懐中電灯をお貸しする。部屋に戻り蝋燭の灯りを頼りに夜明けを待った。その時、思いもかけず電話が鳴った。名古屋からであった。「もう死んだと思った」東京から、下関から、遠くの兄弟から安否の電話が入る。テレビも停電で映らず、遠方の方が状況を正確に掴んでいたとは。

明るくなって職場へ

家族が無事であったことで一安心し西宮の職場へ。車が使えず娘の単車を借り上げる。これが以降大活躍。50ccで軽くて結構走り回れた。路地裏から路地裏へ、やっと国道43号線の外に逃げる。あっちでも家が潰れ、こっちでも道が割け、美しかった町並みは何処にも無い。やっとの思いで役所へ到着(西宮市立青少年補導センター)。とりあえず机を確保する。そこへ指示が入る。避難所へ急行せよ。

避難所へ援軍に

避難所の小学校へ駆け付けると既にぞくぞく避難者が集まってくる。見る間に体育館から埋まっていく。学校長に教室も開放するよう依頼。瞬く間にそこも一杯。廊下や階段の踊り場まで人で溢れかえった。朝から何も食べていないし何も飲んでいない。夕方になってやっとわずかな飲料水と食べ物が届く。「今日一日」「もうすこしです」「我慢してください」 少しの飲食物を皆で分け合ってその日を乗り越えた。パニックにもならず、奪い合いにもならず、次の援助を待った。その避難者の姿に涙が出るほど嬉しかった。逆に「ありがとう」「ありがとう」と感謝され、勇気を与えられた。役所の災害本部へ飲料水と食べ物を求めて徹夜の運搬が始まった。翌日早くも近隣市の救援部隊の物資搬送が始まり徐々に飲食物は充足していった。

避難所で

なにしろ初めてのことばかり。学校長・地域の代表者で本部開設。避難所運営組織が立ち上がる。平素の地域活動が大いに幸いした。避難所の生活ルールができた。ライフラインの途絶で何もかも困窮甚だしい。トイレの水はプールから運んだ。各種の当番の班ができた。次々と労力の提供を呼びかけた。まさに助け合いの村が出来上がった。ボランティアの自然発生であった。

他の避難所へ

夜間の警備や避難所運営に何カ所も訪れた。その頃、全国から駆け付けたボランティアの方々が大活躍。高校生・大学生・一般の人々。救援物資の配布や食材の調達、炊事当番や小さな子ども達の相手など。若者のパワーがどれ程避難者を勇気づけたことか。1週間交替で順番に駆け付けてくれた名古屋の大学生。避難者自身でボランティアとして頑張った中学生。中には、学校の生徒会挙げて老人宅への給水と訪問を続けた中学もあった。不便極まりない共同生活であったが、一方で心温まる人間的な繋がりができ、その中で月日が経っていった気がする。最後の一家族が避難所を出られたのは8月も終わりになっていた。

語り伝えたいこと

生死を分けたのは、ほんの偶然かもしれないが、平素からの心がけで以降の安全が大きく違いを見せるということを。また、具体的には、日常的な飲料水の確保や家具の危険さを意識すること。自然災害に対する知識を一つでも多く吸収すること。台風・大雨・津波・地震などなど。そして、何より大切なことは、学校や職場やサークルや多くの人の結びつきにあったこと。近所付き合いが急場の助け合いに最も有効であったこと。このようなことを伝えていきたいと思っている。