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震災を語る

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【写真】市原 聰美さん
第11回「『もう後ろばかり見るのはやめて、前向きに生きよう』と心に決めました」 市原 聰美さん(人と防災未来センター・語り部)

私の体験
あの日から「もう10年…」「まだ10年…」
今年も、複雑な思いでその日を迎えました。私は震災5年目の「1.17」から、神戸市役所南側にある東遊園地で行われる震災の集いで、5時46分を迎えています。ろうそくの揺れる灯りを見ていると、10年間のことが昨日のことのように思い出され、亡くなった方たちの顔がスーッと浮かんできます。そして辛かった日々、死と向き合った日々のことも。

震災で失ったものの大きさが日を追うごとにどんどん大きくなってゆく一方で、震災の風化というのも深刻になってきました。何よりも、自分自身の中で震災の記憶が少しずつ薄れてゆくことに、今すごく不安を覚えています。

【写真】市原 聰美さん

2階に寝ていたはずなのに、地面までわずか3歩、4歩
ドーーンッという激しい衝撃で、私は布団の中から外に放り出されました。何が起きたかわからないまま激しく振り回され、ゴゴーッという不気味な音の中で深い穴の中に落ちていく自分を感じました。「あぁ死ぬんだな」と、冷静になった瞬間を今でもはっきり覚えています。

ずいぶん長い時間だったように感じた揺れがおさまると、今度はものすごく静か。口の中はザラザラでした。隣の部屋にいた息子の無事を確認し、とにかく外へ出ようと試みました。まず、自宅の2階の部屋から階段の方へ行きましたが、そこに階段はなく、暗闇の中に何か山のようなものが天井に突き上げているのが見えました。

今度は、這って南の窓の方へ。閉めておいたはずの雨戸もなく、外からは「早く出なさい!」という声が聞こえました。誰かが立てかけてくださった板を伝うと、わずか3歩か4歩で地面に辿り着きました。自宅の2階にいたはずなのですが…家が潰れていたんですね。外はまだ真っ暗。近所の人がたくさん外に出てきており、はじめてこれが地震だったことを知りました。

目の前に広がる恐ろしい光景に、生きた心地がしませんでした
辺りを見回しますと、あちこちが火事でした。暗闇の中で吹き上げる炎が本当に恐ろしくて、煙の臭いがすごかったです。何より怖かったのは、ガスの臭いが充満していて「ここにもすぐ火が回ってくるのか」と思ったこと。幸い私のところまで火は回ってこなかったのですが、夕方になっても鎮火することはなく、生きた心地がしませんでした。

やがて明るくなってくると、周囲の様子がはっきりしてきました。そこには昨日までの見慣れた光景はなく、ほとんどの家が大きく傾いたり、屋根が地面にまで落ちてしまったり、2階が道路に転がり落ちている状態。まともに建っている家は、ほとんどありませんでした。電柱は全部北を向いて倒壊。自宅前の電柱は1メートルくらいのところで折れ、屋根の上にのっかっていました。

震災が奪った、命と同じくらい大切なもの
震災は命だけでなく、その家族にとって命と同じくらい大切なものも奪いました。震災の前、私は主人をガンで亡くしていました。ピアノが大好きで、自分で弾いたり、家族みんなで娘が弾くピアノに合わせて歌ったりもしていました。主人が亡くなった後、そのピアノは息子と娘にとってのお父さんであり、私にとっての主人でした。何か辛いことや嬉しいことがあると、ピアノの音を出して話しかけると不思議と元気が湧いてきたんですね。

崩れ方がひどかった我が家は、2月に解体することが決まっていました。久しぶりに戻った自宅は悲しいくらいに荒れ果てて…そんな中、2階を支えていたのがそのピアノだったんです。いろんなものがその上に崩れ落ちていたのですが、触ってみると音が出たんですね。「うわぁーピアノだけは残った! 良かった!」と。しかし、一般車両はまだ市内を走れない状況。いろんなところをあたっても、そのピアノを運び出す術はどうしても見つからず、解体にも立ち会う気持ちにはとてもなれませんでした。結局、家屋の解体とともにそのピアノもあっという間にただの木ぎれに。そのときのショックは、計り知れないものでした。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)との闘い
更地になった家の跡に立ったとき、家族4人で暮らしてきた生活のすべてを消し去られたような思いがしました。その夜からです、まったく眠れなくなってしまったのは。生きていくことがものすごく辛くなってしまった私は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されました。「何で自分だけが生きているんだろう」と、真っ暗なトンネルにポッと放り出されてその中をグルグル回っているような状態で、そのうち自分だけが取り残されてしまったように感じてしまうんです。そういう自分がまた嫌で、責めてしまったりして。本当に辛い日々でした。

家族4人で暮らしてきたことを知っている、私たちの宝物
そんな中、両親や家族をはじめとする周囲の力に支えられ、恵まれて、その年の12月には元の場所に家ができて、再び戻ってくることができました。でも、新しいものばかりで思い出も何もないんですね。「ここにピアノがあったらいいなぁ」って。

年が明けて息子と娘が帰省したとき、息子は紙に包んだ何かを取り出しました。開けてみると、それはなんと1本の黄色く変色したピアノの鍵盤。「えーっ!」と、ただただ驚きました。息子が解体のときに、抜いていてくれたんですね。思わず臭いをかぐと、かすかに懐かしい臭いがしました。私たち家族が4人で暮らしたことを知っているのは、このたった1本の鍵盤だけ。これが残ってくれたことで、その後ずいぶんと気持ちが楽になったことを覚えています。

【写真】市原 聰美さん
ひとつ殻を破ったら、前向きさ・自分らしさが戻ってきました
震災5年目にはじめて参加した「1.17 希望の灯り」には、大切な人を失った大勢の方が追悼に集まっていました。そこで出会った方と、お互いの辛かった話をたくさんしたんですね。共有できる思いを互いに持ち、ともに泣き、自分より辛いであろうたくさんの方との語らい。私はその日その場所で、「もう後ろばかり見るのはやめて、これからは前向きに生きよう」と心に決めました。そして今、やっぱり生きていてよかったなと、本当にそう思えるようになりました。

「辛さや教訓、命の大切さ」を震災を知らない人たちに少しでも伝えていくことが私たちの役目じゃないかなと思うようになったのは、その後のことです。はじめて語り部として皆さんの前で話をしたとき、話を聞いてくださった方にも励まされ、すごく気持ちが軽くなって心地よい感じがしました。そして、ふと気が付いたんです。

私は、「今まで絶対に話さないと思っていたことを少しずつ話すことによって、癒されている」ということに。

(インタビュー 2005年6月1日)