震災を語る 第20回

震災を語る 第20回

私の体験

大地震を体験

私は、子どもの時、熟眠中におきた地震で父親に抱っこされて外に連れ出された記憶がありました。まさか大地震が神戸に起きるとは・・・阪神・淡路大震災のあの日まで想像することもありませんでした。

1995年当時、神戸市立保育所働いていました。1月17日は、8時の出勤に間に合うよう支度し朝食をすませていたその時、あの大地震が起こりました。

開かない鉄の扉、窓から屋外へ脱出

【写真】河東 めぐみさん

住んでいた場所は、震源地の淡路に近い須磨海岸の山側です。夫は東京の親元へ言っており不在。成人している3人の子どもは、関東・広島・市内(垂水区)と、それぞれ離れて暮らしていました。ドーンと鈍い音、何が起こったのか分からないまま激しくて左右に揺れきました。鍋、食器が転がる音や人形のガラスケースが割れる音、戸棚からは大皿が投げ出され割れました。「これは地震だ!」と気づき、部屋から出ようと暗がりの中リュックやジャンパーを持ち入口まで歩きました玄関の鉄の扉は曲がって開きません。トイレへ移動し割れた窓の穴からリュックを廊下に投げ落としました。便座に足をかけ水槽に登り窓の穴をくぐり抜けてなんとか廊下に出ることができました。4階から階段を使い道路へ出ると、数人の方がパジャマ姿のままでした。私は服を着ていたものの、靴は履けずソックスのままでした。

ようやく繋がった電話と妹夫婦の迎え

私には妹がおり、神戸市北区に妹一家が住んでいます。とにかく妹宅に電話をかけるためソックスのまま公衆電話をさがしました。公衆電話をみつけテレフォンカードで何度も掛けましたが、通じません。ポケットに入っていた10円玉でかけてみると一発で電話が通じました。妹は大きな声で「主人と車ですぐに行くわ!あちこち動かずじっとしていてね」と言ってくれました。北区、長田区は道路に家が倒壊、火災も起こっていました。普段なら20~30分の距離ですが、その日は4時間かけて車で来てくれました。

しばらく妹宅に住まわせてもらうことが出来ればと思いましたが、その日のうちにご主人の親戚、知人が次々と避難してこられ、妹宅は満員状態になりました。どうしようか・・・と思っていると「お母さんここ満員や、うち狭いけどおいで!」と垂水区の長男家族が車で迎えに来てくれました。食品も手に入りにくく、住まいが全壊で戻ることができないため数日後には大阪に避難しました。

大阪~神戸

その年の12月まで、大阪から神戸へ片道4つの乗り物を使って通勤しました。
勤務先の保育所は市民の避難所となっていました。私たち保母は市からの食事・衣類・物品などの配給をしたり、保健婦、看護婦に付き添い避難所を回って市からの物資を届けたりしました。朝5:30の始発に乗り、10:00に保育所へ着き、帰宅は夜という日が続き、私は過労で歩けなくなりました。救急車で病院へ運ばれ、2ヶ月間を休むことになりました。動けなくなってはじめて身体の大切さを知ったです。

私の常備品

12月末に住宅が修理され、神戸に戻ってくることが出来ました。
個人の備えとして私は三つのものを常備しています。ベッドの下に懐中電灯、ビスケット1袋、飲料水。賞味期限を時々確かめています。

外国からの貴重な救援物資

【写真】河東 めぐみさん

阪神・淡路大震災後、国内をはじめ海外の国々からたくさんの救援物資をいただきました。防寒服、懐中電灯、食品、子ども用衣類、トイレットペーパーなど。インドからは粉ミルクの缶が届いていました。ミルク缶に書かれているヒンディー語を見たとき、以前夫婦でコルカタに行ったことを思い出しました。貧富の差もあり何人ものやせた赤ちゃんもいました。母国でも貴重で必要なミルク缶を、神戸へ救援物資として私たちはいただいているということに改めて気づき本当に嬉しく感じたことを覚えています。

意識することで誰もが当たり前にできること

学校にいる場合・・・万が一地震がおこったら先生の言うことを聞いて行動して下さい
家にいる場合・・・家族で日常よく話し合っておき、慌てず行動して下さい

自分にできるボランティア活動

私は、須磨海岸という海の近くに住む者として、夏の海びらき、夏の終わりなどに海上保安庁や須磨区役所主催の浜のゴミ拾いに参加しています。約20年前から現在まで紙芝居のボランティアをおこなっています。ボランティア活動とは、難しいことをするのではなく自分にできる簡単な活動をしていけば良いと思います。

インタビュー 2006年5月19日(2022年10月1日 改訂)