震災を語る 第17回

震災を語る 第17回

私の体験

しっかりしなきゃ、辛抱しなきゃ…泣くこともできなかった震災直後

1995年1月17日午前5時46分。私は突然の揺れに驚いて目を覚ましましたが、何が起きたのかわかりませんでした。ただ、家族の「出るなー!」という声で、私は再び布団に潜り込みました。地響きとともに、下からドンと突き上げられるような揺れ方でした。我が家はこの大きな揺れのため、南側へ尻もちをつく形でドシンと崩れ落ちました。余震の続く中で着られるものを手当たり次第着て、無我夢中で家族について外に出ると、1階は見る影もなく無残に潰れておりました。2階だったはずの私の立っていた場所が、1階になっていてびっくりしました。隣近所も皆同じような状況です。

私たち家族は、まず近くの公園に逃げました。家族は「ここから動くなよ!」と言うと、私を置いて消えてしまい、しばらくすると戻って私に「大丈夫か?」と聞き、またいなくなってしまいました。後から聞いた話ですが、家族は埋まっている人を搬送したり、ケガ人の援助活動をしていたそうです。その時は「どこへも行かんと、ここにおって」と言いたくてもやっぱり言えず、震えながら待っていました。「家族がこのまま帰って来ないのでは…」「あぁ、しっかりせねば」という不安と心配で頭の中は真っ白。でも、「家族に心配かけちゃいけない、辛抱しなきゃ」そう思いながら、何もできない自分を悔やんでいました。泣くことさえできませんでしたね。

避難所は地獄のよう。公園に戻っての最初の夜

【写真】菱江 幸子さん

夕方になって避難所に行きましたが、避難できる状態ではありませんでした。体育館も教室も廊下も人・人・人。ケガ人やご遺体が次々運び込まれてきて、その地獄のような光景を見ただけで精神的に参ってしまい、元の公園に戻りました。崩れた家から家族が登山用のテントを引きずり出してきて張ってくれ、そこで寒さを凌ぐことになりました。

夜の10時頃になって大阪の友人が訪ねてきてくれました。私は、「会えて嬉しい!ありがとう」という思いでいっぱいになり、この時初めて涙が出ました。昨日の夜から何も食べておらず、差し入れのおにぎりと温かな湯気と香りのお味噌汁は本当においしかったのですが、胃はびっくりして、せっかくの差し入れを受け付けてはくれませんでした。相変わらず地面の奥から響くような余震が続き、不安な夜を過ごしました。

心やさしい友人の2つの行動

私の友人は、裸足で逃げ出しガラスでケガをしていました。病院は、血を流している人や亡くなりかけている人でいっぱい。「足の裏にガラスが刺さったくらいでは、先生に診てもらう気持ちにもなれなかった」そう言って、消毒液だけもらってきて自分でガラス片を抜いて処置していたんですね。本当はものすごく痛かっただろうに偉いなぁと思ったのと同時に、そういう人もたくさんいたんだろうなぁと思いました。

その彼女は震災の時、お祖母さんの家にいました。お祖母さんは入院されていたので、慌てて様子を見に病院へ駆けつけると、2階へあがる階段がなかったそうなんですね。それで、携帯からお母さんに電話して「2階にあがる階段がないねん」と言うと、お母さんは「何をそんなところでウロウロしてるの。早く避難所へ行きなさい!」とおっしゃったそうです。彼女は泣きながら私に「うちの親は冷たいなぁ、自分の親なのに」って言ったんですね。私は「いや、それは違うよ」と言いました。「自分の親を訪ねてくれて、お母さんも本当は嬉しかったはず。でも、お母さんにとっては娘であるあなたのことが大事やったから、助かって欲しかったからそう言ったんだよ」って。彼女は本当に心やさしい人だったので、そういう風にとってしまったんでしょうね。その後、彼女はテント生活中の私を色々気遣ってくれたりして、とても嬉しかったです。

テント生活中に目の当たりにした人間模様

私たちが避難していた公園には、名古屋から来てくださった自衛隊によって大きな17張りのテントが設営されました。テントの床にはブロックを置き、その上に畳をのせました。床が高くなった分、余震が遠く感じるような気がしました。しかし非常に寒く、朝は布団の上に霜が降りることも。公園という子どもの遊び場を占領していましたので、公園の外回りの掃除と水遣り、雨上がりの後にできたくぼみの土埋め、缶やゴミ拾いなどを家族で行い、いつでも返せるように努めていました。この公園は「指定避難所」には認定されていなかったため、行政からの支援はありませんでした。指定の場所以外は、面倒をみてくれないんですね。皆さんも避難されるようなことがあったら、このことをぜひ思い出してください。

こうした生活の中、本当に色々な人間模様を目の当たりにしてきました。人間の良い面と悪い面の両方を見てしまったんですね。たとえば、用意された公衆電話に長蛇の列ができているのですが、10円玉で1回電話をかけたら列の最後尾に並び直す、こうした思いやりのルールが自然と生まれたことなどは嬉しいことでした。ご近所で倒壊を免れたお宅では「水出ます。裏に回ってください」「トイレ使用してください」という張り紙も。同じ被災者であるのにこうして声をかけてくださることが、本当にありがたかったです。その一方で、届けられた善意の物資を独占したり、厚かましく一番先頭に割り込んだりする最悪な方もおられました。この年になって、こんな対照的な人間の表と裏を知ることになるとは思いもしませんでしたね。

自宅で雨風は凌げるけれど、お水も食糧もなく、トイレも使えないというお宅もたくさんありました。いただいた物資を皆でわけている時、柱の影から若い女性がのぞいていたんですが、もらっていかれないんですね。私は「よかったら持って帰ってください。遠慮することないんですよ」と声をかけました。その女性は「近くのマンションに住んでいるものですが…いいんですか? おっぱいが出なくなってしまって」と言います。「お母さんだったら、そんな遠慮せずに並んでもらっていって、子どもにおっぱい飲ませてやらなきゃダメよ」と私は初めて怒りました。ひどく遠慮されていたお母さんでしたが、時にはそんな勇気もないとダメなんですよね。

語り部活動を通じて、お礼の気持ちを伝えたい

いまも、世界の各地で自然災害は起きています。阪神・淡路大震災の時に助けていただいたお礼に何かをしたいと思うのですが、この年になると被災地に出向いてもかえってご迷惑になりかねない。そう考えた時、語り部としてお話しすることを考えました。やはり「聞かれたくない、触れられたくない」という思いがあったのですが、私がお話しすることで「神戸で元気にしています」「あの時は、ありがとうございます」という気持ちが伝わるのであればと思い、語り部3年目となりました。辛い時もあるけれど、励ましをいただけることもありますし、語り部ボランティアを始めてよかったと思っています。

11年前、一緒に震災を乗り越えた仲間が、今年ももうすぐ花をつけます

テントで生活している時、1鉢の紫陽花をいただいてテントの入り口に置いていました。「来年も大きく育って花をつけてね」と言いながら育ててきたんですね。全壊の家から助け出せたシダの鉢と一緒に震災を乗り越え、あれから11年。いまでも一緒に頑張ってきた仲間たちが毎年元気に青々と成長してくれることが、私の生き甲斐になっています。「あぁ生きててよかったな」って。今年も、紫陽花が花をつける楽しみな季節がもうじきやってきます。

【写真】菱江 幸子さん

(インタビュー 2006年5月2日)