震災を語る 第18回

震災を語る 第18回

私の体験

「地震なんて絶対来ない」と思っていました

「神戸にだけは、地震なんて絶対来ない」そんな根拠のない自信があった11年前。阪神・淡路大震災が起きた1月17日の早朝は、神戸市兵庫区の自宅で家具に囲まれた部屋で休んでいました。そろそろ起きようかという頃、長く、これまでに感じたことのない揺れが襲ってきました。あっという間に主人と私はタンスの下敷きです。なんとか主人が先に抜け出し、私のことも引き抜いてくれました。布団を掛けていたことも幸いし、2人とも外傷はなく「あぁ助かった」と思いました。あたりは真っ暗、しばらくは2人してソファで放心状態だったことを覚えています。

身体の痛みや腫れ、その時姉の一言が…

実家が近かったので、まずそちらへ身を寄せました。被害の大きかった地域から少し離れていたため、支援のない町。不安でしたね。水は隣の幼稚園の井戸や給水車から確保して、なんとか急場を凌いでいました。それから2~3日後のことです。肩や腕をはじめ、身体の節々が急に痛み出しました。タンスの下敷きになったのですから「打撲くらいはあるだろう」と、私はのんきに考えていました。ところが肩のあたりを触った時、左脇にあるピンポン球くらいの腫れに気付いたのです。「リンパが腫れているのかな?」と姉に話をすると「すぐ病院へ行こう。普通じゃないよ」と言うのです。この時はまだ、「病気」という発想はありませんでした。

突然すぎる、外科医からの宣告

【写真】西川 妙子さん

病院といっても、震災直後のこと。潰れてしまって診療できなくなっているところが多く、なんとか診療しているところは、大きなケガをされている方たちでいっぱいです。機能している病院が見つからず途方に暮れていると、長田区役所の一室でボランティアの先生方により仮設診療所が開設されているとの情報を得ました。私は主人と姉に引っ張られるようにして、区役所へ向かいました。

図書室を使った診療所には、ボランティアの外科医がいらっしゃいました。触診するなり、先生は言われました。「震災後の大変な時にかわいそうだけれど、90%乳ガンだと思います。リンパに飛んでいるので、一刻も早く手術をしないと。明日病院へ戻るから私と一緒に帰りましょう。必ず治してあげるから」と。突然の宣告に、とても大きなショックを受けました。先生はご好意で言ってくださっているのですが、もう冷静な判断ができません。先生の病院は日本海側にあり、「家族といま離れたら、最後のお別れになるかもしれない」そんな思いもあって、結局ご好意に甘えることができなかったんですね。先生の「必ず治してあげるから」という心強いお言葉は、いまでもしっかり私の中に残っています。

大切な人たちに支えられて、いまの私があるのです

その後、市内の病院に入院が決まり2月24日に手術。1日も早く仕事がしたいという思いがあり、リハビリにも力が入りました。「死にたくない」「生きている証しを感じたい」そんな気持ちも私を支えていたと思います。色々ありましたが、震災とともに10年経った昨年、主治医から「もう大丈夫」と言ってもらえてしみじみ。やはり主人をはじめ、母や姉たちなど家族に支えてもらったことが大きかったですね。とくに主人は、実家が避難所生活を余儀なくされたり、私がガン手術を受けたりで本当に辛くて不安だったと思います。家族には家族の苦労があっただろうと思うと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。何時間もかけてお見舞いに来てくれた、職場の友人にも感謝しています。

病気をしたことで、被災された方々の「痛み」がよくわかりました

【写真】西川 妙子さん

5年前、震災の慰霊メモリアルウォークに参加しました。歩く道すがら、色々な思いで歩いていらっしゃる方々を見ていたら、急に自分のことが恥ずかしくなりました。私は震災で病気が見つかって、命をいただいた。でもあの震災では、たくさんの大事な命が奪われていったんですね。もし病気をしていなかったら、私には人の痛みがわからなかった…かもしれません。

これまで、命をいただいたことのお返しになればと、センターにボランティア登録をして展示解説を4年間やってきました。そして今年4月、病気再発の不安はありながらもひと区切りがついたことで気持ちの整理ができ、語り部になる決意が固まりました。人前で話すことは得意ではなく不安もあったのですが、「感謝の気持ちを伝えたい」、「命・元気を与えたい」という思いの方が強くなりました。これまではどうしても病気のことを人に知られたくなかったのですが、そこをお話しすることで「命があることのありがたみ」そして「病気は早期発見・治療が大切であること」を皆さんにお伝えできるのであれば、と思っています。

(インタビュー 2006年5月2日)