震災を語る 第21回

震災を語る 第21回

私の体験

大家族全員が、一瞬にして家屋の下敷きに

震災当時、我が家は今どき珍しいと言われる「4世代」で同居しておりました。住んでいたのは、被害の大きかった神戸市長田区です。重い瓦がのった築63年の木造日本家屋は、あっという間に全壊。家族7人全員が崩れた家の中に閉じ込められてしまいました。4世代7人とは、88歳になるおばあちゃん、私たち夫婦、長男とお嫁さん、1歳半になる孫、そして次男です。長男のお嫁さんは妊娠8カ月でしたから、正確には8人ですね。

揺れがおさまると、私は30~50センチくらいの隙間にいました。なんとか起きあがれましたが、それ以上は動けません。2階が潰れて落ちたため、部屋の照明器具に簡単に手が届きました。「もうひと揺れきたら、押しつぶされて死んでしまうかも。もうダメなのかな…」という恐怖の中、他の部屋にいる家族の様子がとても気になっていました。1月の午前5時46分はまだ暗く不安を倍増させます。

冷静な判断ができなくなるほどの恐怖体験

明るくなって周囲が見え始めた頃、まず主人が自力で這い出し、次に長男も出ることができました。おばあちゃんと私も無事。ところが、お嫁さんと孫がいません。息子に問いかけても、放心状態。男の人でも極限状態になると、お嫁さんと我が子のことさえ気遣えないほどなんですね。それほどの恐怖体験だったのだと思います。日頃から「危機意識」を持っていなかったため、冷静な判断ができないという結果を招いたのです。

地震から6時間後、一番奥に埋まっていた次男が最後に助け出されました。一番体力があったので、頑張っていてくれたんだと思います。自分や家族の死をあんなに身近に感じたのは、初めてのこと。柱や梁にぶつかることなく、家族全員が助かり、体の力が一気にぬけていきました。

悲しすぎる事実から、目を背けたままではいけません

【写真】西出 尚子さん

ご存じの方も多いと思いますが、震災時にもっとも火災が多かったのが長田地区でした。長田は日本で有数のケミカルシューズの工場地帯で、接着剤などをたくさん保有していたんですね。これに引火して、火災が大きく広がった一因かもしれません。

阪神・淡路大震災の死因でもっとも多かったのは「圧死」。物の下敷きになって亡くなった方が本当に多かったんです。長田では、物の下敷きになりながらも生きていた方がたくさんいました。でも、その多くはなぜ助からなかったのか。生きながらも身動きが取れず、火に包まれてしまったのです。このことは、あまり語られていません。悲しすぎますけれど、これが事実です。「物の下敷きにならない」少しでもその可能性を高めるために、皆さんも寝る場所を考えたり、家具の転倒を防ぐ工夫をしたり、避難経路を確認したりといった災害対策をぜひ行ってください。助かる可能性は、絶対に大きい方がいいですからね。

「遭わなくてよかった」ではなく、「もし、地震に遭ったら…」

阪神・淡路大震災から1年半ほど前の1993年7月、マグニチュード7.8の北海道南西沖地震がありましたよね。実は、あの数日前に私は北海道を旅行していました。被災状況を中継するテレビ番組を観ていると、訪れたばかりの橋が映し出され、大きな被害を伝えていました。私は「運が良かった、ラッキー」と思いましたし、家族も口々に「地震に遭わなくてよかったな」と言いました。その時は、「もし、こんな大きな地震が来たらどうしよう?」「家族はどうなるだろう?」ということは考えもしません。それが、たった1年半後にはこんな大きな地震として我が身に降りかかってきたのです。

皆さんも「私も巻き込まれていたかもしれない」と、一度考えてみてください。「もしかしたら…」という危機意識を日頃から持っておくといいと思います。当時の私は、危機感ゼロ。心のどこかで「自分だけは大丈夫」と思っていたことを、深く反省しています。

「震災に対する意識の希薄さ」を感じての、大きな決断

【写真】西出 尚子さん

語り部になって2年が経ちました。震災からしばらくは、震災のことには触れたくないというのが家族の総意でした。そんな時、同じ神戸でも温度差や意識の違いがあることを知りました。同じ神戸市内でもちょっと場所が違えば被害の小さかった地域もあり、「大変だったでしょうが、頑張ってください」皆さん、そう言って声をかけてくださいました。でも、「何かできることありませんか」「一緒に頑張りましょう」という言葉を聞くことは少なかったです。

こうした意識の希薄さを痛感した時、「語らなくては」との思いがしました。「すごく大変なことが起こった」という事実をもっと誰かが発信していかないと、現実は理解されないんだな、と。そして、私自身も「今までそういう意識だったのではないか?」と反省させられました。今まで気付かなかったことに、震災が気付かせてくれたんですね。

「4世代同居」という生活から、新たな人生のステップへ

さて、地震で我が家をなくした私たちは、大阪にある、主人の会社の独身寮に避難して「県外避難者」となりました。神戸を出て気付いたことは、震災報道は被災地が中心で、県外の被災者の様子はほとんど伝えられていないということ。実際は、県外へ避難して慣れない環境下で苦労されていた方もたくさんいらっしゃいました。これも、「被災者として声を上げなければ」と思ったきっかけでした。

「4世代同居」という珍しかった暮らしぶりも、震災を機に激変しました。大家族からそれぞれの暮らしを考えるという、良いのか悪いのか暮らし方を選択する機会となったのです。長男一家は、当時お腹にいた赤ちゃんも含め4人でマンション暮らし。その後、私たち夫婦と次男の3人は神戸に帰ってきました。おばあちゃんは神戸に戻ることなく、1年後に避難先の大阪で亡くなりました。そんな人生の大きな転機を迎え、生活にもひと区切りがついて新しい人生の出発を考えた時、語り部としてメッセージを送ろうと思ったのです。

話を聞いていただいた方から、「実際の体験談が聞けてよかった」「臨場感のある話を聞くことができた」という声をいただけるのは嬉しいことですし、自分にできる範囲のことをできるだけやっていこうという思いがいっそう強くなります。一度話を聞いただけでは、すべては伝わらないかもしれません。何かが心のどこかに残ってくれたら…そう思ってお話ししています。

インタビュー 2006年5月19日(2022年10月1日 改訂)