震災を語る 第23回

震災を語る 第23回

私の体験

20秒足らずの悲劇を、誰が想像したでしょうか

阪神・淡路大震災-たった20秒足らずのうちに全半壊25万棟、死者6,400余名、負傷者数万名、ライフライン全滅という大きな被害に見舞われました。まさか神戸がこんなことになるとは、誰が想像したでしょうか。

私は震災当時、神戸市垂水消防署員でした。当直勤務で現場の指揮を執っていましたので、地震の直後から救助活動や火災現場へと駆けつけました。救助・消火活動中も、いつまた大きな余震が発生するとは限りません。「いま起これば、死ぬかもしれない」そんな思いが頭をよぎったことも事実です。

消防職員だけが味わった、言葉にできない感情の数々

神戸市内では、59カ所の炎上火災が発生。道路は倒壊した家屋に塞がれて、救急車や消防車が通行できないことも多数ありました。消火活動には消火栓が使えない状況でしたから、防火水槽に頼りました。1月という真冬の渇水期であったため、六甲山から流れる川の水量も少なく、我々は学校のプールや海水に水源を求めました。

通常の火災と違い、住民による初期消火はほとんど期待できません。火災はとてつもなく拡大し、燃え盛る炎に近づけないほどの輻射熱。消防職員として救助することも消火することも何ひとつ満足にできないまま、時間だけが過ぎていきます。木造建物はどんどん延焼しますが、その倒壊建物の下にはまだ多数の人が生存しているかもしれないのです。この時の気持ちは、何と表現したらよいのでしょうか。自然の力のものすごさと、人間の力がいかに微力であるかを思い知らされました。

いまだかつて、想像もできなかった数々の現場との直面…自分の立場に対応できないもどかしさや悔しさ、そして腹立ちの中で現場活動は一夜、二夜と明けていきます。極めて危険な環境下で、しかも終息の見えない長時間の活動が続きました。救助の声に応えられなかったことからくる無力感と絶望感が、肉体的にも精神的にも疲労感を高めていき、既に人間としての限界など遥かに超えていました。それでも、誰ひとりとして音を上げる者はいません。皆、足が前に出なくなるまで活動し続けてくれました。この時ほど、消防職員としての使命感、責任感の素晴らしさを痛感したことはありません。

「備え」と「偶然」が守った家族の命

【写真】野村 勝さん

私の住む町は、神戸市内で最大の火災被害を受けた長田です。自宅は築80年にもなる古い家でしたが、震災の10年くらい前に補強工事をしていたため、全壊に近い状態ながらもかろうじて残っていました。当直勤務のまま救助・消火活動に駆け回っていたため、家族の安否が確認できたのは震災から4日目のこと。正直、ホッとしましたね。

夫婦の寝室には大きなタンスがあり、いつもなら妻はそのすぐ前に寝ていました。大きな揺れが来たら、間違いなく下敷きです。震災前日、私が不在だったこともあって妻は物を退かして部屋を掃除し、何を思ったのかいつもと違う位置にマットレスをずらしたまま寝ていました。そんな偶然もあって、妻は助かっていてくれたのです。8日目に自宅へ帰ると、周囲の家屋は全焼・全壊でほとんど壊滅的な状況。近隣住民に家族の避難先を訪ね、ようやく家族の顔を見ることができました。

「まちづくり協議会」の意義と目標

私は、神戸市長田区の細田・神楽まちづくり協議会の会長をしています。めちゃくちゃになってしまった我が町を見て、「どないしたらいいんやろ…」と思ったのが組織立ち上げのきっかけでした。震災から5カ月、42.6ヘクタールの地域を束ねるべくまちづくり協議会を立ち上げると、住民の中から役員を選出。被災後の混乱の中で会合を重ね、規約をつくり、町の将来を皆で考えました。

この町の将来を思うほど、途方に暮れました。簡単に答えなど出るはずがありません。それでも何百回と役員会を開き、住民総会ではそれを説明。神戸市に次々と要望書を提出していき、ひとつずつ実現されてきました。「やっとここまできた」という思いと、まだまだやることが残っているので「もうちょっと頑張ってみよう」とする気持ちが、活動の原動力になっています。

もちろん意見の相違もありましたが、話し合いの経験や培われた人と人との繋がりは、極めて貴重な財産となりました。激動の10年をまちづくり協議会が住民にリードしてきたことは、確かでしょう。最終的に目指すのは「市民が主体の社会」。コミュニティーづくりや地域防災などの活動基盤といったソフト面を支えることが、本来の姿だと思っています。

あなたは、何のために訓練に参加しますか

震災の教訓として、私が強く感じたことのひとつに「自分の命は自分で守る」というものがあります。危機管理意識は、高ければ高いほどよいと思います。たとえば避難訓練をすることになった時、「何のために訓練するか」を考えたことはあるでしょうか? これは、防災行動力を身に付けるためです、自分の命を守るためにやるものです。防災に関する意識というのは地域によって大きく違い、「ここには地震なんて来ない」と思い込んでいた神戸では、これが極めて低かったと思います。

皆さんの意識の甘さ、そして行政の意識の甘さは大きな被害に繋がりかねません。では、それぞれ何をしておけばいいのか。まずは誰かが声を上げ、皆が意識していくこと。こうして1人が1人を動かすことから組織が生まれ、それは国をも動かす力になっていくのです。私は、今までやってきたように「誰かが声を上げる」ということを続け、これからも大きな力を生むきっかけをつくっていきたいと思います。そして、皆さんにもぜひそうあってほしいと願っています。

震災を生き延びた1人として、皆さんにお話しできること

【写真】野村 勝さん

あの時、消防職員として、助けたくても救出できなかった悔しさや無力感がありました。被害が大きくなった原因を追及し、自分にできることを考えていった先にあったのが、次の世代に語ること。もし満足のいく活動ができていたら、語り部になろうとは思わなかったかもしれません。

センターには年間約60万人が訪れます。来館される方によってお話しする内容は違ってきますが、震災を生き延びた神戸市民の1人として、また消防職員としての体験を通じてお伝えしたいことはたくさんあります。辛いからと隠してしまえば、そこで終わり。伝えていくことが次の備えにも繋がると思いますし、生活再建や街の復興、安心・安全な街づくりのための一助にもなるのでは、と考えています。

インタビュー 2006年5月20日(2022年10月1日 改訂)