震災を語る 第24回

震災を語る 第24回

私の体験

さまざまな人生経験の中で、大変辛かったことのひとつです

私は1930年に東京で生まれました。15歳の頃に東京で大空襲に遭い、その後に移り住んだ広島県竹原市ではピカドン(原爆)の恐怖を味わいました。そして嫁いできたのが神戸。ここで阪神・淡路大震災を体験することとなったのです。その後も病気を患うなど、さまざまな人生経験を重ねてきましたが、「震災」は今でも思い出すと涙が止まらなくなってしまう大変辛かった体験のひとつです。

ある日の主人の行動が、私の命を救ってくれました

ある時、主人が道具を買いそろえて帰宅し、突然私の寝室にあった大きな本箱を、三つ組みにした針金と金具で柱に固定して動かないようにしたのです。「急にどうしたの?」と聞きますと、「地震が起きた時に、これが倒れてきてお前が死んだら困るから」と主人。その時は、傷がついてしまった本箱を見て、笑っていました。

それから約1カ月後の1995年1月17日午前5時46分。「ドーン」と突き上げられる震動に目が覚めました。地鳴りと激しい横揺れ、そして上下動。家がバリバリと壊れながら、悲鳴を上げています。すると、ドスンドスンと壁土の塊が寝ている私の上に落ちてきました。私は頭から布団を被りましたが、色んなものが落ちてきました。揺れが止まったので、枕元の本箱にいつも入れてあった懐中電灯を手探りしたのですが、そこに本箱はありません。固定してあった本箱は倒れることなく、床を抜いて地面に落ちていたのです。あたりをそーっと触ってみますとチクチク痛く、ガラスの破片でケガをしてはいけないと思いじっとしていました。しばらくして、夫の懐中電灯に照らし出された我が家の惨状に「何、これ!!化け物屋敷…怖い!」と思わず叫びました。全壊の家の中から夫に助けられて外へ出ると、昨日まで建っていたはずのご近所の家々が、黒々とうずくまった怪物のように潰れていたのです。

被害の大きかった地域に暮らす子どもたちは?

【写真】佐藤 瑠子さん

我が家は、東灘区にある2階建ての木造住宅でした。この辺りは、1,471人の方が亡くなった被害の大きかった地域です。西隣の家は南に倒れ、我が家は西に、南側の家は北に倒れて道をふさいでいました。家の前の通りでは、3人の方が生き埋め状態。近くに嫁いでいた娘さんが「お母ちゃんがいない!」と言って、素手で瓦を1枚1枚取り除きはじめました。幸い近くに建築関係の方がいらしたため、潰れた家の屋根から穴を開けて、男の方が協力して全員を助けてくださいました。

しかし、喜んでばかりもいられません。私は30年以上そろばん教室をしており、たくさんの生徒を抱えておりました。教え子たちが訪ねてきては情報交換しており、東灘小学校の子どもたちは全員無事とわかりました。でも、本山第三小学校の子どもたちの情報がありません。私は、小学校へ行ってみました。

大切な生徒たちのことを思うと、涙が止まりませんでした

本山第三小学校では、6人の生徒が犠牲になったということでした。そのうちの2人は、そろばん教室に通っていた小学校6年と3年の姉妹。ご主人とかわいい姉妹を亡くし、残されたお母さんは悲しみに暮れていました。私も大切な生徒たちの早すぎる死に、涙が止まりませんでした。

そろばんのお稽古にいつも1番最初に来ていた、3年生のリエちゃん。当時5歳だった私の孫はリエちゃんのことが大好きで、よく遊んでもらっていました。ある時、リエちゃんは集めていた大切なシールをたくさん孫にくれたんですね。「大事にしないとダメよ」リエちゃんにそう言うと、「リエは、もういらなくなるの。だからもらってほしいの」と。その言葉が最後でした。リエちゃんは、もしかすると自分の未来を察知していたのでは? と今になって思います。孫はこの春、高校2年生になりました。あの時リエちゃんにもらったシールを、今も1枚ずつ大切に使っています。

仮設住宅に当選したのは、任務があったから?

住むところを失って娘のところに避難していた私たち夫婦は、仮設住宅の第1回の抽選に当選しました。公団住宅の建て替えのため空室になっていた、築30年の古い住宅を神戸市が借り上げて用意してくれたものです。母子家庭や障害者の方など、いわゆる「災害弱者」の方が優先的に当選する中、当たってしまって良かったのだろうかという思いもありました。

そのわずか半年後、突然神戸市から立ち退きの連絡がありました。最初から半年の予定で貸し出したという説明でしたが、被災住民は寝たきりの親をお世話している家庭やろうあ者のご夫婦、母子家庭などが多く、皆追い出されたらたちまち行き場を失ってしまう人たちばかり。「このままでは大変だ。70軒以上の被災住民の方々をリードするべく、立ち上がらなければ!」夫婦でそう話し合うと、周りの協力のもと陳情書をまとめて市会議員を訪ねました。話し合いにも代表で参加し、必死で訴え続けました。マスコミが着目したことも功を奏し、結果的には公団の家賃の半分を払い、次に行く場所が見つかるまで置いていただけることに。住民の皆さんは、泣いて喜んでくださいました。第1回で当選したのは「この任務をあなたたちに託します」という神様のお告げだったのかなぁと思っています。これが、私たち夫婦の最初のボランティアでした。

「リエちゃん」のこと、語り続けていきます

【写真】佐藤 瑠子さん

我が家はその後住宅を再建し、そろばん教室も無事に再開することができました。ところが、緑内障に子宮ガンと次々に病を患ってしまい、決して平穏とは言えない人生です。それでも早期発見でき、今こうして生きていられるのは本当に神様のおかげだと思っています。

子宮ガンで入院中、夢の中にリエちゃんが出てきました。なぜ、かわいい良い子が死んでしまったのか…思い出すたびに涙があふれました。そして、ようやく退院した頃のことです。親友(語り部・荻野君子さん)から「一緒に語り部の試験を受けよう」と誘われました。その時「これはもしかして、リエちゃんの話をしてくれということ?」と私は受け止め、語り部ボランティアをはじめました。

こうして私がお話しすることで、この地震によって神戸では多くの子どもたちが亡くなったということを知っていただけたらと思います。リエちゃんも生きていたかったはずです。皆さん、どうか命を大切にしてください。人生は、楽しいことばかりではありません。苦しいこともたくさんありますが、自分の人生を悔いなく生きていただきたいと思います。

(インタビュー 2006年5月20日)