震災を語る 第25回

震災を語る 第25回

私の体験

パニックな中にも、少し冷静な自分がいました

1995年1月17日、ゴーッという音とともに私の身体がドーンと落ち込み、目が覚めました。無意識に両手で頭をかばい、大きな揺れに自分の身体をどうすることもできないまま「早く止まって! 早くおさまって!」と心の中で叫んでいました。わずか20秒弱の時間でしたが、ものすごく長く感じました。部屋の中は、倒れた家具や飛んできたものでどうにもならない状態。冷静なような、パニックのような…何とも言えない感覚で、しばらくは身体が震えてうまく動けなかったことを覚えています。

暗闇の中を手探りで進みながら、何とか玄関まで這い出しました。パニック状態だった主人も、しばらくして外に出てきました。息子はどうしているだろう…少し冷静だった私は、すぐに息子のことを思い出し、主人に様子を見に行ってほしいとお願いしました。

息子宅は全壊。必死で名前を呼び続けていました

徒歩5分ほどの距離に暮らす息子は地震前夜、疲れて帰宅すると、布団ではなく寝袋に入って就寝していました。大きな揺れに見舞われると、本の詰まったダンボールと大きなテレビの間に挟まるような形で寝袋ごと埋まってしまったのです。なかなか主人が戻らず心配していると、主人から電話がかかってきました。その時は、まだ繋がっていたんです。「いないぞ」「自転車はある?」「ある」「じゃあ、まだ中にいるはず!」そんなやりとりの後、私も息子の家に駆けつけました。それは見るも無残な全壊。これは大変なことになったと思い、通りに出て、必死で助けを求めました。近所で1人のおばあちゃんを助けられずに戻ってきたという男性たちに息子のことを話すと、さっそく掘り出し作業を手伝ってくださいました。手伝えない私は、息子の名前を叫んでは耳を澄まし、中から何か声や音がしないか確認することを繰り返していました。

たくさんの方の協力を得ながらも、限界を感じていました

【写真】崩れた家屋 東田せつ子撮影

必死の救出作業が続く中、あたりにガスの臭いが充満してきました。ここで火が出たら、助けに入ってくれている人たちも危ない…もうダメ? でも、何とかして息子を助け出したいという欲もある。何かいい方法はないか…人手がもう少しあれば。その時、近くに私の職場があることを思い出しました。あそこに行けば、誰かいるかもしれない。私は自転車にまたがり、電線が垂れ下がりブロックが倒れてめちゃくちゃになった道なき道を、転んでは起きあがりを繰り返しながら進みました。その時は息子を助けたい一心で、痛みなどまったく感じなかったですね。到着すると「店長、うちの子が下敷き!」と叫びました。そうして職員数名が駆けつけ、作業に加わってくださいました。

私は、ずっと息子の名前を呼び続けていました。でも、次々に飛んでくるマスコミのヘリが爆音を立て、そんな私の声はかき消されるばかり。これでは、息子がもし助けを求める声を上げていても、聞こえるはずがありません。低空を旋回するヘリにだんだん腹が立ってきました。そして、息子はなかなか見つかりません。「きっと、自転車を置いてどこか遊びに行っているんだろう」「これ以上、皆さんにご迷惑をかけられない」「これだけ探してもらったんだから、もういい…」あきらめかけたその時でした。「見つけたよ!」という声。その声は、今でも頭の隅にしっかり残っています。あの時の嬉しさといいますか、当時を思い出すとまた涙が出てきてしまいます。

口や鼻に砂が詰まっていながらも、息子は生きていてくれました。前か後ろかわからないほど砂に埋もれた顔をコートで拭いてやり、砂を取り除き、近所の方にいただいた水を飲ませてやりました。早く病院へ連れて行こう! そう思った時、集まっていた人たちが色々と声をかけてくれたんですね。「教会へ行きなさい」ひときわ大きく聞こえたその声に、私はお医者さんがいるのかな? と思いこみ、主人と息子と行ってみました。しかし、そこに先生などいるわけもなく、どうしたものかと考えました。そして、私たちは正確な病院の情報を得られるかもしれない、と今度は警察へ向かって歩き出しました。

通電とともに発火。怖いのは地震だけではありませんでした

途中、消えていたはずの信号機に灯りがつきました。すると、すぐ側にあった家の玄関の軒先から炎が吹き出し、私の髪はチリチリと音を立てています。そこへ、その家の奥さんらしき女性が助けてと泣きながら飛び出してきて、私と激しくぶつかりました。奥さんの背中がメラメラしているのが見え、慌てて上着で叩いて消してあげると、道路の真ん中にペッタリと座り込んでいました。側にはガソリンスタンドがあって非常に危険だと思い、私たちは足早にそこを離れようとしました。少し歩いたところで振り返ると、奥さんが四つん這いのまま、火に包まれた家の前まで近づいていました。「奥さん、危ないから下がりなさい!」私は、最後にそう叫びました。

この世の地獄で見た、光るもの

【写真】東田 せつ子さん

その後、警察で診療してくれる病院を聞き、普段なら7~8分で行ける距離にある病院まで1時間ほどかけて向かいました。やっとたどり着いた病院は、この世の地獄としか言い表せない状況でした。泣く・叫ぶ…足の踏み場もないほどに床には人が横たわっていました。あの惨状は生涯忘れることができません。

どれほど待ったころでしょうか。隅っこで待っていた息子に、先生が声をかけてくれました。水も電気もなく、レントゲンさえ撮れない状況でしたが、包帯で身体を固定し「このまま安静にしておいてください」。そう言うと、先生の目から大粒の涙がポロポロ…暗がりの中でも光って見えました。「先生、息子はそんなに悪いんですか?」不安になってそう聞くと、「初めて命がある人を処置した」と嬉しそうにされました。今でも月に1~2回はこの病院の前を自転車で通ることがありますが、涙がこみあげてどうしても素通りすることができず、少し離れたところから黙祷を捧げています。

泣き出しそうな私を救ってくれた、温かい言葉とは

震災から何日か経ち、私は潰れた家の中から必要なものを取り出しては、運び出していました。大工だった主人は、あちこちから声がかかって大忙し。息子も身体が思うように動かないながらも仕事に行っていたので、1人で作業をしていました。自転車に荷物をいっぱい積んでの往復。お腹は空くし、吹く風は冷たいし、もういやや、泣きたい…そんな気持ちになっていた時でした。1台の軽トラックから声がして、男性が降りて来られました。「奥さん、大丈夫ですか? 1人で頑張ることないんですよ。私たちがついているじゃないですか」それは、和歌山県からボランティアに来られたお坊さんらしき方でした。こんなに嬉しい言葉をかけていただいて、とても励まされました。「支えられている、この気持ちに応えなければ」と強く思った出来事でした。

語り部活動が実を結んだ時、大きなやりがいを感じます

私はこのセンターがオープンした時からの語り部です。人前で話すことは得意じゃありませんし、思い出したくはなかったです。できない、とも思っていました。でも、日本は活断層の多い国。いつ、どこに大地震が襲ってくるかわかりません。その時のために心の備えが必要です。そして「1人でも多く助かってほしい」という思いが、私を講話に立たせています。話を聞いた子どもたちが「防災グッズを揃えました」と言っているのを聞くと、やっぱり嬉しいですし、語り部活動が実を結んだ結果かなと思います。やりがいがありますね。震災時に全国から助けていただいた感謝の気持ちと学んだ教訓を、これからも伝えていきたいと思います。

(インタビュー 2006年5月21日)