震災を語る 第31回

震災を語る 第31回

私の体験

ベッドの中の私も、仏壇のご先祖様も放り出されました

私は、夫とともに神戸市東灘区の阪神高速道路が倒れた北側で震災に遭いました。神戸市内では一番死者が多かった地区で、ほとんどの方が家の倒壊による圧死と聞いております。我が家は当時、築23年の軽量鉄骨造2階建ての戸建て住宅で暮らしていました。あの朝、ベッドから放り出されたショックで目が覚めました。何が何だかわからず、床で四つん這いになったまま「これはなんやろ?」と思っていました。最初の揺れがおさまった時、隣の部屋で寝ていた夫が「地震や!」と叫び、ようやく地震だと気付きました。いつもの場所に懐中電灯はなく、枕元の左右に置いていたはずの眼鏡と携帯ラジオも飛んでいってありません。こんな地震が来るとは、夢にも思いませんでしたね。

電気がつかず真っ暗なため、隣室の仏壇にあるろうそくを思い出し、襖を開けて隣の部屋に足を踏み入れようとすると、畳に足がつかないんです。明るくなってからわかったことですが、洋服ダンスや三面鏡が倒れてその上に蛍光灯が落ちているという状況でした。これらを踏みつけてバリバリという音とともに仏壇の前にたどり着きましたが、中には何も残っていません。ご先祖様も放り出されていました。

腰が抜けるほどに変わり果てた、震災後の街

しばらくして外から「おばあちゃん、大丈夫か?」という声がしました。近くに住む娘婿が心配で見に来てくれたのです。我に返って1階へ下り、下駄箱が倒れた玄関をなんとか開けてご近所を見た時、腰が抜けるほどびっくりしました。路地を隔てたお向かいの5軒並んだ家が落ちるでもなく、建つでもなく、中途半端な角度で全部傾いているんです。お隣の増築した2階部分は、我が家に覆いかぶさるように倒れかかっていました。我が家はどうかと見ましたら、軽量鉄骨構造のおかげでなんとか無事に残っておりました。ご近所の人たちは見当たらず、シーンと静まり返っていて不気味な感じでした。

近くで暮らす家族の無事を確かめるため、娘夫婦のマンションへと向かいました。あの日は特別寒かったので手当たり次第に服を重ね着し、毛布をかぶり、スニーカーを履いて外へ出ました。40店舗ほどのショッピングセンターは、連なったまま大通りへと崩れ落ちていました。倒れた家屋の上を歩き、斜めになった家の下を通り抜けました。足場の悪い中を歩くには、スニーカーが最適です。皆さんも、防災グッズとしてスニーカーを用意されるとよいかと思います。

混乱の被災地で出会った優しい風景と叫び声

【写真】山崎 主知子さん

娘や孫たちの無事を祈りながら歩いた街は、ヘリコプターにパトカー、消防車や救急車、そして工作車などが入り乱れて大パニック状態でした。工作車というものを初めて見たのですが、これはスコップやのこぎり、はしごなどを積んだ車。大きな道具を出してきては、生き埋めになっている人をたくさん救出していました。

大きな通りの角にある公衆電話には、30人ほどが長い列をつくっていました。11年前と言えば、まだ個人に携帯電話が普及している時代ではありません。テレホンカードは使えない状態で、10円玉でないと通話できませんでした。10円玉をたくさん持っている人は、残った分を後ろの人に譲ってあげたりして、その街角だけはとても優しい朝だったんですよ。今も耳に残っているのは、電話をしている女性の叫び声。「もしもし」とか「こんにちは」を言う暇はなく、ただ一言「私、生きてるでぇー」と。とにかく「私は生きている」ということを伝えたくて、夢中で叫ばれたのでしょうね。

「明日からどうすれば…」不安に暮れた震災の夜

ようやく、長女夫婦の住むT字型のマンションに到着しました。建物はちょうどT字になっているところが60センチほどずれて離れてしまい、すでに立ち入り禁止になっておりました。心配だった長女一家は、孫3人を含め全員無事。その後、近くのマンションに住む次女の家族も全員が無事であることを確認しました。

これからの生活について皆で話し合い、被害が少なかった上、避難所となっている小学校に近い次女のマンションを、婿殿のお母さんも含めた4世帯12人のとりあえずの落ち着き場所と決めました。そのうち「おにぎりをくれるぞー」という声がどこかから聞こえ、避難所である東灘小学校へおにぎりをいただきに行きました。その帰り道、明日からの12人の暮らしを考えると涙がポロポロとこぼれました。明日からどうやって家族を守っていけばよいのか、そしてこれからの厳しい食生活を想像し、胸が詰まる思いでした。おにぎりは冷たくて堅く、朝から何も食べていないのに食欲はありません。私たちは、たった1本のろうそくの灯に12人の命を預ける思いで、不安いっぱいの一夜を過ごしました。

娘の声で、ボランティア活動のことを思い出しました

マンションのベランダから、曲がりくねった阪神高速道路の白い壁をぼんやり見ていると、長女が「お母さん、明日から何か活動しなきゃ」と言いました。その声に、長年のボランティア活動のことがよみがえり、「何かしなきゃ!」という気持ちになりました。

19日になると、生活協同組合コープこうべ深江店が店内の在庫品のみの店頭営業をすることになりました。そこで、当時組合員活動に参加していた私も生協活動を再開。さっそく「いかなごのくぎ煮」や「豚汁」の炊き出しなどを始めました。ボランティアは私にとって特別なことではありませんでしたので、できることを一生懸命やるしかないと強く思い、避難所や仮設住宅、町の医院の待合室から復興住宅までを回る多忙な日々を送りました。

まだまだ遠い「復興100%」に向かって

【写真】山崎 主知子さん

震災から11年が経ち、神戸の街は見事に復興したかのように見えます。でも、路地に一歩入ってみると15~20坪の小さな敷地が所々に残っています。これは、長年この土地で暮らしてきた人たちの土地。まだ家の再建ができない方も、大勢いらっしゃるんです。高齢になってくると長年暮らした場所に帰りたくなるものですが、どうしても帰れないんですね。毎年頂戴する年賀状にそう書かれているのを見ると、胸が締め付けられるような思いがします。その年賀状も、寂しいことに年を経るごとに少なくなっていきます。元の場所へ帰りたいと願っている人たちの望みが叶うまで、そして人々の心が復興するまで「復興100%」とは言えないのではないでしょうか。その日が来るまで、頑張っていきたいと思います。

(インタビュー 2006年6月4日)