震災を語る 第33回

震災を語る 第33回

私の体験

私の短歌づくり

私が30代の頃、亡き父に「仕事とは関係のない趣味を持て」と言われたのがきっかけで、趣味の短歌をずっと休まずに続けています。もう30年近くになるでしょうか。仕事が忙しい時も同人誌に欠かさず投稿、短歌を通じていろんな方々と触れあうこともできました。私の短歌は折々の思いを過不足なく丁度に表現する、「自分自身の心を見つめる訓練」だと思っています。

震災に関する短歌は震災後の4~5年をかけてつくったものと、最近になってできたものもあり、全部で70首ほどになります。今日はその中のいくつかを、あるがままの記録として私の体験した「阪神・淡路大震災」を振り返っていきたいと思います。

反射的に 頭被いし 蒲団にて 妹守らんとす 激震のなか

思いがけないことが、当たり前のようにして起きました。11年前の阪神・淡路大震災です。「地球の終わりじゃないか?」と思うほどの激しい揺れでした。私は反射的にかぶっていた蒲団で自分の頭を、続いて妻を守っていました。ヘルメットは持っていませんでしたし、身をもって妻を守るような危ない目にも遭ったことがありません。普段したことのない頭、そして妻を守る動きがあの時は反射的に出ました。人は緊急の時、こんな動きができるのです。

間一髪 救わるる際 かさなりて 生かされ生くる いのちを思う

私が住んでいたのは、神戸市東灘区。JRの線路北側ギリギリの所でした。線路を挟んで南側は軒並み古い木造家屋が倒壊し、北側は比較的無事でした。「少しでも安全な所に、少しでも丈夫な家を」と過去の災害の話などを参考にして建てた我が家は、被害を免れることができたのです。あの日、ちょっとしたことが生死を分けたという人は少なくなかったと思います。人は、自分の力ではない大きな力に守られて生きているのだと実感しました。

四日前 箪笥どかした 妻に借り

家を建てて6年半、ずっと寝室に置いてあった箪笥を、家内が隣の部屋へ移動させました。震災の4日ほど前でしょうか、「朝起きた時に、何となく重苦しい嫌な感じがして。こういう時は何かした方がいい」と思っての行動だったそうです。もしあのまま箪笥が置いてあったら…きっと私の上に倒れてきて下敷きになっていたと思います。だから家内には「命の借り」があるんですね。家内の直感と行動に対する感謝は、短歌ではなく川柳になりました。ある学者が「人間にも危険を予知する力が時に見られる」と言っていました。こうした能力についても知っておいていただきたくて、この川柳を紹介しています。

たより無く 文明潰えむ 瀬戸際を 魂触れて 人ら支え合う

【写真】千田 徹夫さん

この町の人々は、平和で豊かな時は他人を気にせず自由に生き、思想も多様。互いのことをよく知らず、互助の仕組みや訓練もほとんどない…そんな都会人が震災の修羅場で見事に助け合ったんですね。動機は、人命の危機を放置できない「やさしさ」だったと思います。目の前で人の命が危ないという時、困っている自分のことを後回しにしてでも放っておけない。素手同然での救助活動が行われ、多くの命が救われました。

私は皆さんにお話しする時、「我が街・神戸へようこそ」と声を掛けます。それは、こうして助け合って頑張ってきた神戸の町を誇りに思っているから。人間が本来持っているこの「やさしい」気持ちがある限り、特別なことをしなくても、神戸でできたこの支え合いは他の街でも海外でもきっとできるものと思っています。

震数多死し 傷つき町は 潰えしに 明るく大きく 満月昇る

震災の発生した1月17日は満月。ヘトヘトに疲れて、食事があるかなと帰ってくる道すがら、東の空から明るく美しい月が昇っていました。街がぺちゃんこに潰れて、灯火もなく真っ暗だというのに、お月様はかえって大きく明るい。天体の運行は、地上の大災害とはまったく関係がないことを目の当たりにしました。

大宇宙の 微塵の如き この町に また無きいのち 今吾は生く

広い宇宙から見たら、神戸は小さくか弱い街です。そして我々は、小さくひ弱な命です。それでも今、この街と自分の命や自分と関わる人々の命、それらを切ないほど愛しく思っています。羽根でも貰って災害や苦しみのない所へ飛んでゆきたい…そんな気持ちもするけれど、人が生きるのは今ここしかない。いつでも「今」を大切に精一杯生きねば。そんな思いが私の中に生まれていました。

援け合う やさしさ説くを 少年ら こころ開きて 聴取りくれし

このセンターが完成したばかりのこと。お父さんの転勤で東京へ引っ越すことになったという母子が来館されました。孫と同じ世代、小学生のお嬢さんでしたね。私が話すと、こう目を潤ませて…深く入ってくるんです。その時、「あぁ、僕はこの子の目をこんな風にする体験談をしているんだな」と気が付きました。それまではボケ防止の生き甲斐くらいに考えていた語り部活動が、「次世代へ、孫の世代へ語り継いでいく責任」という強い想いに変わりました。

心に留めて学んだことは、きっと緊急の際に役立つはずです

【写真】千田 徹夫さん作の短歌

5年前の1月17日に行われた震災の記念ウォークに家内と2人で初めて参加し、王子公園からセンターまでの約2キロを歩きました。その時にいただいたチラシの中に、こちらの語り部募集があったのです。退職から5年が経ち、中小企業診断士の勉強会に参加したり趣味の短歌をやったりするくらいで時間に余裕のある日々を過ごしていたので、家内にも勧められてやってみようと思いました。センターのオープンから語り部活動を続けている、初期のメンバーです。

センターを訪れる子どもたちに、私は「ここでの学習を大事にしなさい」といつも言っています。私たちの体験で、災害の学習がとっさの時にも活きて、正しい判断・行動ができる。「必要な時に思い出すぞ」と自分に言い聞かせて、心に留めておいて欲しい。一生そんな目に合わない方がよいけれど、非常の時には役立ってくれるはずです。また大切にして欲しいのは、誰もが持っている「やさしさ」です。災害時に助け合うだけでなく、命を大切にという点では、地球の環境や争いのためにも、話し合い、力を合わせて欲しい。飢えをなくし、物的に豊かになるために働いてきた私たちの20世紀と違って、豊かな21世紀を生きる若者は、もっと大きな課題にも立ち向かってくれるはず。そう信じて、これからも語り続けていきます。

(インタビュー 2006年6月8日)