震災を語る 第34回

震災を語る 第34回

私の体験

死を覚悟した時、天からの声が聞こえてきました

震災前夜、私は家族と一緒に三陸はるか沖地震(1994年12月)の余震被害についてのニュースを見ながら「神戸は地震がなくていいな」などと話をしていました。しかし、その翌朝のことです。大きな揺れに異常を感じ、熟睡中だった私は飛び起きました。そして2階にいる家族に向かって「地震だ! 逃げろ!」そう叫んで逃げようとした時、再び「ドドッ」という大きな音とともに激震が襲ってきました。あまりの激しい揺れで立っていることができず、しゃがみ込んだと同時に後ろにあった水槽の水がバシャッと背中にかかり、我が家が轟音を立てながら頭上に崩れ落ちてきたのです。降ってきた天井は、頭のすぐ上のところで止まってくれました。

揺れが止まった後、暗闇と静寂に包まれた私は、中腰の状態でなんとか前後左右に少し身体を動かせる程度でした。どこかから、ガスの臭いも漂ってきました。「もしも何かがガスに引火して、倒壊した家の木材に燃え移ったら、私たちは確実にバーベキューになってしまう!」という思いが頭をよぎり、自分の人生はこれで終わりだという恐怖とともに死を覚悟しました。

これまでの人生が走馬灯のように頭を駆け巡る中、「お前は未だ生きてやることがある、死ぬな!」という天からの声が聞こえてきたのです。すると身体が勝手に動きだし、本能的に脱出しようとしていました。暗闇であたりを手探りし、次に身体をずらしながら天井を頭で突き、なんとか1カ所を破って夢中で外に出ました。

家族や隣近所の無事がわかり、「生きる力」が湧き上がってきました

逃げ遅れていた息子たちと暗闇で声をかけ合いながら、一緒に近くの公園へ避難すると、すでに人であふれ返っていました。気が付けば、私は裸足のまま。真冬の地面の冷たさに、足踏みをしても堪えられなくなってきた時のことです。隣にいた人が、ありがたいことに地面に置いていた毛布にのせてくれました。夜が明けるのを待って自宅に戻ってみると、1階部分が完全に潰れており、「よくぞ助かったものだなぁ~」と思いました。家族全員が無事に揃い、隣近所の安否確認ができたとたん、「生きる力」が湧き上がってきました。

街全体が崩壊した姿を見て、地震の凄さを実感。周囲は、倒壊した建物が道路をふさいでいて、なかなか歩くことが困難な状況です。大きなマンションは1階部分が崩れ、全体も大きく傾いていました。親族の安否確認から戻る途中には、数カ所で埋まった人々が救助を求める声を聞き、その1つに入って瓦礫を剥がしたり声をかけたりもしました。近所では消防も警察も見当たりませんし、取り出してきた携帯ラジオから流れるニュースでは『近畿地方に強い地震があり、京都では棚から落ちてきたものでお年寄りが頭に傷を負った』程度の内容しか伝えられていません。この時「あぁ、自分たちで生き延びるしかないんだな」と感じました。

恨めしかった「お腹の脂肪」に感謝!

【写真】大塚 迪夫さん

「のどが渇いてきたが、水はどうしよう」「ご飯はどうしよう」「今晩はどこで寝よう」などと考えながら、壊れた家から引っ張り出してきた自転車に乗って家から500メートルほど北に行ってみると、ほとんどの住宅が無事でした。新築だった友人の家も無事で、私たち家族はこちらにお世話になりました。食料は、子どもが持っていたアメ玉を分け合いました。それ以外は何も望めないことがわかると、不思議なもので空腹感はなくなり、身体に付いている脂肪がエネルギーとして燃焼しているのを感じました。この時ばかりは、日頃恨めしく思っていたお腹の脂肪にも感謝しましたね。

普段の生活からは想像できない体験の数々

夕方になって「病院は大ケガをした人でいっぱいになっており、骨折程度では相手にもされない」との話が伝わってきました。私も家族もあちこちに軽傷を負っており、とくに私は五寸釘を踏んだ時の傷がズキズキと疼きます。そこで自転車に乗って薬局を探しに行くと、赤チンを手に入れることができました。それを家族で塗り合い、お互い真っ赤になったのを見て笑いました。家族全員が無事であり、こうして笑顔を見られたことを神に感謝し、電気もなく空腹を抱えたままにその夜は早めに就寝しました。

震災から2日後の夕方に電気が使えるようになり、束の間ホッとしました。テレビの地震被害についての報道を観ていると、画面に映る数字がだんだん増えていきます。それが確認された死者の数とわかると、身の震える思いがし、涙がこぼれてきました。

それから、壊れた家の中から取り出してきたお米を、炊飯器を借りて炊きました。ご飯に生卵としょう油をかけただけの2日ぶりの食事は、これまで食べたものの中で最高に美味しいもので、今でもその味を覚えています。その後もさまざまな困難はありましたが、多くのボランティアの方や友人、そして親戚たちに励まされ、助けられて私たちは生活を再建していくことができました。

家具をすべて固定していたことが、家族の命を守りました

私たち家族が、幸運にも全員無事だった理由を思い起こしてみると、「ローチェスト(3段のタンス)の上に家の梁が落ちてきて、生存可能な空間ができたこと」、「日頃から家具をすべて鴨居に金属で固定していたために、家具の転倒がなかったこと」この2つが大きかったと思います。私は神戸で暮らす以前に地震が頻発する東京に住んでいたため、「家具を固定する」という習慣がありました。

この度の大地震では、家そのものが命を奪う凶器となってしまうことを痛感しましたね。私の住んでいた神戸市東灘区では1,471人の方が亡くなられたのですが、そのほとんどが倒壊した家屋もしくは家具の下敷きになってしまったのです。その後に再建した我が家では、こうした教訓を活かして大地震に襲われても生き延びることができるよう、設計に工夫を凝らしています。

大きなケガなく命を守るために、自分たちでできること

【写真】倒壊した家屋

多くの方々に助けていただいた恩返しをしようと、私は語り部ボランティアとしてこのセンターで活動をしています。私の震災経験の中で皆さんにもっとも伝えたいこと、役立ててほしいことは「震災時には家そのものが凶器となり、命を奪う危険があるんだ」ということです。もちろん食料や水も大切ですが、やはり命があってこそ。大きなケガなく命を守るためには、まず震災で倒壊しない丈夫な住まいづくりが大切です。日頃から震災を意識して家具を柱に固定したり、非常食や水・懐中電灯といった備えもしておいていただけたらと思います。

インタビュー 2006年6月8日(2022年10月1日 改訂)