震災を語る 第41回

震災を語る 第41回

私の体験

震度7は想像をはるかに超える揺れだった。

当時、神戸市水上消防署の予防担当をしていた。当時の神戸市民の多くの人が神戸で地震が起きるとは思っていなかった。住民の皆さんには「神戸市は地震がないと言われているけど、そんなことはありません」と語っていたが、灘区で経験した激しい揺れは、想像をはるかに超えるものであった。

寝室の大きなタンスが倒れてきたが、幸いにも助かった。懐中電灯とラジオが大変役に立った。その時の一番大切な教訓は、「家屋の耐震化」「寝室に家具をおかない。ダメなら家具の固定。」ということです。

消防署へ向かう途中の光景に驚愕する。

自転車で出動途中、消防隊のホースから水が出ていない光景を見て愕然とした。市役所が大きな損壊を受け、神戸港の岸壁が壊れコンテナが無残にも海中に沈んでいた。神戸大橋を渡ると液状化で一面泥の海であった。

消防署の床はボールを置くとコロコロと動くほど傾いており、その後、消防署の前の観光バス会社の好意で拠点を移し、後日、消防隊はバスの中で仮眠を取るという状況であった。

その時、騒然としていた管制室

火災、生き埋め、ガス漏れなど通報多数。当初は監視テレビがダウン。1号館24階の展望室へ上がると多数の炎上火災が確認でき、最悪の同時多発火災が起きていた。

長田消防署の当時の現場責任者は「その時、すでに視界の中に赤い炎が飛び込み、ガレージを出ると別の場所で続発火災が発生。現場に到着後、放水しようとすると消火栓の水がでない。あわてて防火水槽への部署替えを指示するが水が足りない。一方で、子供が、母が、・・瓦礫の下に・・と助けを求める声が次々に飛び込んでくる。全く手が足りない・・・・。」と語っている。

消防団員の使命感

全国の消防本部の半数以上が駆けつけてくれた。その後、水利の確保に耐震性防火水槽などの整備を進めている。消防団は、消防隊と連携しながら、消火活動、中継送水等の活動を行った。地域の情報を知り尽くしている消防団員は、郷土愛、使命感で活動しており、家族の理解なしには活動できない。

消防隊員は余震が続く中、倒壊したビルの隙間で命がけの救助活動を行った。日頃からの災害体験訓練と災害現場でのヒヤリハットへの対策が殉職事故の防止につながる。避難所では、薄暗い中、小学校は避難者で満員であった。提供できる明るい情報は何もない。「飲料水、食料はない。当面は自衛手段を図って欲しい」と言うしかなかった。

「防災福祉コミュニティ」の誕生

あの時私たちは「命の大切さ 備えることの大切さ 助け合うことの大切さ」を学んだ。震災を教訓にした神戸市の自主防災組織が「防災福祉コミュニティ」。日頃から福祉活動など活動が盛んな地域は、災害対応や復旧活動もうまくいった。事業所も防災福祉コミュニティの一員。企業の消防ポンプで社員が消火活動を行い、延焼を食い止めた例もある。自助、共助、公助の割合は7:2:1。広域・大規模災害では、住民の初期消火や救助活動が極めて大事。瓦礫の下に生き埋めになった人の多くは家族や近所の人に助けられた。人々のバケツリレーで火災を消火した地域もあった。

東北津波災害の現場を見て、初めて知った津波の恐ろしさ

神戸市消防隊は、緊急消防援助隊として宮城県に出動した。阪神淡路大震災を経験した職員もいたが、全く異なる活動を強いられた。現地では多くの消防職員、消防団員が殉職している。心からご冥福をお祈りします。

私は、タクシーの運転手さんから「地震当時、今までにない揺れであっため、津波がきっとくると判断して車で逃げた。しかし、渋滞で前に進まない。バックミラーで後ろを見ると津波が押し寄せてきているのが分かる。200m位迫って来た時、わき道を知っていたので渋滞から逃れ、九死に一生を得た。」という貴重な話を聞くことができた。

実際に現地を見ると、阪神淡路大震災のときと異なり、津波災害では、あたり一面すべてが流され、その違いを実感した。地元の老人から「昭和三陸津波で造ったコンクリートの防潮堤が、今回の津波で破壊された」という話を聞いて津波の怖さを実感した。また、地域の人から「必死の思いで逃げた。そのあとで津波が追っかけてきた。高台に逃げて助かった。」という話を聞いた。高台に上がってみて、早い避難が大切であることを教えられた。

身の回りの防災・減災対策は大丈夫ですか。

ふるさとの災害履歴や災害文化を学ぼう。

阪神淡路大震災や東日本大震災のみならず、皆さんの住んでいるふるさとの100年、1000年単位の地震・津波、風水害等災害履歴や言い伝えなどの災害文化を学ぶことは重要なことだと思う。

100年、1000年単位の準備が必要

「明治三陸津波や昭和三陸津波ではここまで津波が来なかった。だから避難が遅れた」とういう報道を見た。想定外ということばがあるが、過去の経験のみで判断することは危険な場合もあることも学んだ。

国語 算数 理科 社会 そして防災・減災

「防災・減災の知識や知恵が、命を救う」「災害を経験しないと賢くならないようでは、余りにも犠牲が大きすぎる」このことは「人と防災未来センター」の河田センター長が言われていることである。わが国は世界でも類を見ない地震、津波、台風等が多い国である。幼い頃からの防災・減災学習は欠かせない。

学校から家庭へ 家庭から地域へ 地域から学校へ

震災を知らない神戸市民が多くなった。子供たちへの防災教育が大事。この継続的な循環が震災の教訓を風化させることなく、地域の防災力を高めると考える。「人を救うのは、人しかいない」震災直後にテレビから流れていた。「車 ゆっくり ゆっくり 家ゆれる」と被災した市民が手作りの看板を掲げていた。

私の経験が皆さんに少しでも参考になれば幸いです。